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名古屋の産業

名古屋周辺では工業が発達し、やがて自動車や飛行機の生産なども行われるように。現在では日本を代表する工業地帯である「中京工業地帯」の中心地となった。世界トップクラスの自動車メーカーに成長した「トヨタ自動車」、また、世界的な陶磁器メーカーとなった「ノリタケ」など、この街から、日本を代表する世界的な企業も多数誕生している。


「豊田自動織布工場」から「世界のトヨタ」へ MAP __

「豊田自動織布工場」(のちの「豊田自動織機製作所 栄生(さこう)工場」)は「トヨタグループの」創始者である豊田佐吉によって1911(明治44)年に設立された。豊田佐吉は1924(大正13)年に「無停止杼換(ひがえ)式 豊田自動織機(G型)」を発明、世界を驚かせた。この発明で得た資金と技術が、現在「トヨタグループ」の代名詞ともいえる自動車事業への進出につながったという。【画像は明治後期】

「豊田自動織機製作所栄生工場」は現在、「トヨタ産業技術記念館」として保存されている。記念館には、「繊維機械館」や「自動車館」などがあり、「トヨタグループ」の「モノづくり」をはじめとした日本の産業技術を紹介する施設となっている。

戦前期に海外で大人気となった「ノリタケ」の高級洋食器 MAP __

1904(明治37)年、愛知県鷹場村則武(現・名古屋市西区則武新町)に「日本陶器」が設立された。戦前期、ここで製造された、所在地の「則武」に由来する「ノリタケ」ブランドの高級洋食器は、アメリカなどへ輸出され大人気となった。【画像は1904(明治37)年】

1981(昭和56)年、会社名は「日本陶器」から「ノリタケカンパニーリミテド」へ改称された。本社敷地内には陶磁器に関する複合施設「ノリタケの森」が2001(平成13)年にオープンした。現在、「ノリタケカンパニーリミテド」(旧「日本陶器」)は戦前の「森村財閥」の流れを汲む「森村グループ」の中核企業となっている。「TOTO」「日本碍子」は「日本陶器」の一部門から独立した会社で、日本を代表する企業へ成長した。

図は1917(大正6)年の本社全景。手前には東海道線が描かれている。本社工場は2014(平成26)年に閉鎖、その後「ノリタケの森地区計画」による再整備が行われ、2021(令和3)年に商業施設「イオンモール Nagoya Noritake Garden」が開業、2023(令和5)年には大規模なマンションも誕生した。【図は1917(大正6)年】

ドイツの製パン技術により創業した「敷島製パン」

「敷島製パン」は1919(大正8)年に創立された名古屋の老舗企業で、半田にあった「敷島屋製粉工場」を前身としている。創業者の盛田善平は醸造業の盛田家の出身で、1887(明治20)年には叔父の中埜又左衛門とともに「丸三麦酒」(のちの「加富登麦酒」)を創業していた実業家であった。写真は創業時に新築したパン焼き窯で、右から5番目が盛田善平、4番目が技師長のハインリッヒ・フロインドリーブ。「第一次世界大戦」時の「名古屋俘虜収容所」内に製パン技術に優れたドイツ人俘虜がいると聞きつけた盛田善平が技師長として招き、製パン会社を興した。【画像は1920(大正9)年】

写真は1925(大正14)年、栄町の交差点の角に誕生した「栄町宣伝部」の開店大売出の様子。創業者・盛田善平の発案により、たまたま名古屋に巡業中だった「木下サーカス」の象2頭を借りて宣伝を行った。「敷島製パン」の「宣伝部」はパン食の啓蒙も目的とした直営店で、試食の提供も行っていた。
MAP __【画像は1925(大正14)年】

現在、「敷島製パン」は「Pasco」ブランドで全国で知られ、製パン業界において国内上位のシェアを誇る大企業となっている。写真はかつて「栄町宣伝部」があった、現在の「栄交差点」の北西側の角地の様子。栄町の交差点の北西側(かつての「栄町宣伝部」)に隣接する場所には、1910(明治43)年から「日本生命」のビルがあり、1961(昭和36)年、角地を含め「日本生命栄町ビル」が建設された。「日本生命栄町ビル」は2020(令和2)年に建て替えが完了し商業施設「BINO(ビーノ)栄」(写真)が開業となった。

国内有数の飛行機メーカーだった「愛知時計電機」 MAP __

「愛知時計電機」は、1893(明治26)年、名古屋で「愛知時計製造」として創立された会社。高い製造技術から、明治後期には軍需品の信管部品をはじめ、電機部品も製造するようになり、1912(明治45)年に現社名へ改称となった。1920(大正9)年、プロペラなどに時計の製造技術を用いて航空機の製造を開始し、1922(大正11)年、南区千年(現・熱田区千年)に新工場(写真)を建設、大正末期には国内有数の飛行機メーカーへ成長した。1927(昭和2)年には水道メーターの製造を開始、同年には「早稲田大学 大隈記念講堂」の塔時計も製造し、1930(昭和5)年の「アツタ号」の開発にあたっては計器・電装品を担当した。

写真は昭和前期の飛行機製造の様子で、主に海軍の軍用機を製造した。軍事的に重要な工場であったため、「太平洋戦争」の「熱田空襲」では標的とされ、周辺も含め大きな被害を受けた。【画像は昭和前期】

現在は水道メーター・ガスメーターなどの計測機器や計測システムのメーカーとして人々の暮らしを支えている。時計の製造は1993(平成5)年に終了した。写真は現在の「愛知時計電機」の本社工場で、奥の建物が本社。


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