1887(明治20)年、「京岐商会」は現在の熱田区白鳥町に国内で5番目、名古屋で初となるセメント工場を建設。翌年「愛知セメント商会」、1890(明治23)年「愛知セメント」と改称、1897(明治30)年、現在の瑞穂区桃園町の「東海道」沿いに新工場(写真)を建設した。多数見える煙突は、明治期のセメント焼成窯の主流であった「徳利窯」。高さ15~20mという大きなもので、この工場には49基もあり、1913(大正2)年当時、国内の約1/4、最多の窯数を誇るセメント工場となっていた。なお、この頃から全国的にセメント焼成窯は生産効率の良い「回転窯」への転換が急速に進み、「愛知セメント」においては1920(大正9)年に「回転窯」へ転換している。
1897(明治30)年、「東海道」沿いに新工場を建設し移転してきた「愛知セメント」は、大正期には国内最大規模のセメント工場となっていた。明治中期からは養鶏業が盛んになり、昭和戦前期に孵化と雌雄鑑別(しゆうかんべつ)の技術も発達し、雛の販売が地域の重要な産業となった。「新堀川」が開削されると川沿いを中心に工業化が進み、現在の愛知県の「ものづくり」の基盤となる企業や産業もこの地から多く生まれた。