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賑わいの軸となった南北の「本町通」と東西の「広小路」

「本町通」は「名古屋城」と外港「熱田湊」を結ぶ、築城以来の主要な道路。「碁盤割」の中心を貫き、通り沿いには名古屋を代表する大店が軒を連ねる南北方向のメインストリートであった。のちに東西方向のメインストリートとなる「広小路」は、当初は「堀切筋」と呼ばれる道幅三間(約5.45m)ほどの通りであったが、江戸前期の「万治の大火」後の復興の際、類焼を防ぐために十五間(約27m)に拡幅され「広小路」とよばれるようになった。以降、名古屋の賑わいは、この2つのメインストリートを軸に発展していった。



碁盤割南端の「広小路」 「栄交差点」が盛り場に

江戸初期、名古屋の城下町は「碁盤割」と呼ばれる正方形に区画で造られ、現在に至る街並みの基礎となった。「碁盤割」の区画は現在の中区丸の内、中区錦あたりに位置し、南北に貫く「本町通」、東西の「伝馬町通」が交わる、現「伝馬町通本町交差点」付近が「碁盤割」の中心地として、伝馬会所や高札場が置かれた。この「本町通」は、「名古屋城」から南に延びる「美濃路」となり、「宮宿」に続いていたことから、通り沿いに商店や旅宿が並ぶ街に発展した。その後、現在の「広小路通」が誕生し、交差点に近い「玉屋町」(現・錦二・三丁目)は、大いに賑わいを見せるようになる。
MAP __(伝馬町通本町交差点)

「広小路通」は、もともと碁盤割の南端にあたる「堀切筋」と呼ばれていたが、1660(万治3)年の大火を機に道幅が15間(約27m)に拡幅され、「広小路」と呼ばれるようになった。

明治期になると、「広小路通」は「名古屋駅」方面へ延伸され、東西を走る路面電車(のちの市電)が誕生し、多くの店がこの通り沿いに移転、進出する。現在の「栄交差点」付近には、県庁や市役所が置かれたこともあり、賑わいは「栄交差点」付近に移った。


「本町通」と「広小路」の交差点 MAP __

江戸時代、「本町通」と「広小路」が交差する場所は、芝居小屋や夜見世が出るなど賑わいの中心地として発展した。交差点の北側は玉屋町と呼ばれ、明治期に入っても名古屋の中心地として発展した。写真右端、交差点の北東角に見える「中村呉服店」は、1869(明治2)年にこの地へ進出してきた。右手奥にみえる時計塔は「長谷川時計舗」が明治後期に建設したもので、街の目印となっていた。【画像は明治後期】

写真は昭和前期の同地点の様子。街並みの変化は見られるが、時計塔は変わらず街を見下ろしている。この交差点には、大正期に「名古屋市道路元標」が設置されており、当時の名古屋の道路の中心地であった。現在は復元された「名古屋市道路元標」が設置されている。【画像は昭和前期】

現在、この交差点は「広小路本町交差点」と呼ばれ、周辺はオフィス街となっている。左のビルは2018(平成30)年に開業した「広小路クロスタワー」。右は2021(令和3)年に竣工した「三菱UFJ名古屋ビル」で、この場所には、かつて「東海銀行」の本店があった。

「広小路通」と「武平町通」の交差する地点に建てられた「日清戦役第一軍戦死者記念碑」 MAP __

1899(明治32)年、「日清戦役第一軍戦死者記念碑」が「広小路通」と「武平町通」の交差する地点に建てられた。「日清戦争」で戦死した兵士を顕彰する碑で、砲弾の形をしていた。「日清戦争」の「第一軍」は名古屋の「第三師団」と広島の「第五師団」から成っていたため、広島にも同形のものが建立された。「広小路」の路面電車は当初、この碑を迂回する形で走っていた。写真は大正期の撮影で、奥の建物が「愛知県会議事堂」と「愛知県庁舎」。1900(明治33)年から1938(昭和13)年まで、この地に置かれていた。【画像は大正期】

「日清戦役第一軍戦死者記念碑」があった場所は、現在の「中区役所交差点」となる。かつて「愛知県会議事堂」があった一帯では、現在「(仮称)S2計画」として再開発が進められている。

路面電車が「日清戦役第一軍戦死者記念碑」を迂回する際、レールが軋む騒音がひどく、近くにあった県会議事堂の議事にも影響があったといわれ、1920(大正9)年、写真の「覚王山」の「放生池」の畔に移された。現在、「放生池」は埋め立てられているが、記念碑は残る。
MAP __【画像は大正期】

「堀川七橋」の一つ「納屋橋」 MAP __

「納屋橋」は1610(慶長15)年頃、「堀川」に架けられた「堀川七橋」の一つ。1886(明治19)年の「名古屋駅」の開業に合わせ、「堀川」から駅前までの道路が拡幅された。「広小路通」が西へ延伸される形となり、この時「納屋橋」も架け替え拡幅された。1898(明治31)年には路面電車も通るようになり、1913(大正2)年、写真の鋼製アーチ橋に架け替えられた。【画像は大正期】

現在の「納屋橋」は1981(昭和56)年に架け替えられたもので、前代の橋の面影を残すアーチが取り付けられ、欄干には開削を行った福島正則の家紋が施されている。

「納屋橋」から栄町方面を望む写真で、中央の通りが「広小路通」。写真左の「堀川」沿いに建てられたビルは、1931(昭和6)年に完成した「加藤商会ビル」。「加藤商会」はシャム米(タイ米)の輸入などを行っていた商社で、1935(昭和10)年から1945(昭和20)年頃まではシャム国(現・タイ国)の領事館もここに置かれていた。当時の「堀川」は舟運が盛んで、「広小路通」と交わるこの場所は、米などの輸送に便利であった。
MAP __【画像は昭和前期】

写真は現在の同地点の様子。「加藤商会ビル」は現在も残り、2001(平成13)年に「旧加藤商会ビル」として国の登録有形文化財となった。2005(平成17)年には「旧加藤商会ビル」内にタイ料理レストラン「サイアムガーデン」が開業、現在もタイ国との交流の場となっている。

百貨店も進出した栄町 MAP __

「広小路通」沿いの栄町周辺には、明治後期に「いとう呉服店」(のち移転、現「松坂屋」)、大正期に「十一屋」(写真左の大きい建物)、戦後に「オリエンタル中村」(現「名古屋三越」)など百貨店も開店し、名古屋最大の商業地として発展した。大正期~昭和初期の、多くの人々が「広小路通」を行き交う様子は、「銀ぶら」になぞらえて「広ぶら」と称された。【画像は昭和前期】

「名古屋駅」駅前と栄地区を結ぶ「広小路通」は現在も名古屋のメインストリートの一つとなっている。夏には、名古屋の夏の風物詩である「広小路夏祭り」が開かれ、多くの人が訪れる。写真中央、「十一屋」の跡地に建てられていた「栄町ビル」は2023(令和5)年に解体開始となった。

「名古屋駅」の移転で開通した「桜通」 MAP __

「名古屋駅」から東に伸びる「桜通」は、「名古屋駅」の移転・改築に合わせ建設され、1937(昭和12)年に開通した。通り名は錦にある「桜天神社」からの命名。「名古屋駅」から「広小路通」の北側に並行して東方面に延びる大通りで、その後の名古屋の発展に大きく寄与した。写真は1959(昭和34)年の撮影で、正面に見える「名古屋駅前大噴水」は同年に完成したもの。【画像は1959(昭和34)年】

「名古屋駅前大噴水」は地下鉄(のちの桜通線)の建設に伴い1984(昭和59)年に撤去された。1989(平成元)年に地下鉄桜通線が開通し、「桜通」の地下には「国際センター」駅、「丸の内」駅などが開業。開通に合わせ「名古屋駅」駅前の再整備も行われ、同年、かつて大噴水があった場所に「飛翔」のモニュメントが設置された。しかし、この「飛翔」も「リニア中央新幹線」開業に向けた駅周辺の再整備に伴い、2022(令和4)年に解体された。写真は解体着手直前となる2021(令和3)年3月の撮影。【画像は2021(令和3)年】


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