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工業地域の拡大

川崎の工業は、明治末期より臨海地域で発達していたが、昭和10年代になると、軍需を担う電気通信機器・精密機械などの多くの工場が「南武鉄道」沿い、現在の武蔵小杉一帯に進出した。「南武鉄道」は工場労働者の通勤客の利用が増え、沿線の人口も増加、商業も発達した。1939(昭和14)年には、「東京横浜電鉄」に「工業都市駅」も新設された。


「富士通信機製造」が川崎市中原に工場を新設 MAP __

1935(昭和10)年、「富士電機製造」(現「富士電機」)は電話部所管業務を分離し「富士通信機製造」を設立。新工場の建設地は錆の発生に関する調査を特に重視して選定。1938(昭和13)年、「南武鉄道」(現・JR南武線)の「武蔵中原駅」の駅前に新工場を建設した。【画像は1938(昭和13)年】

ここでは、『日本のMr.コンピュータ』と呼ばれた池田敏雄らにより、1954(昭和29)年の「FACOM100」をはじめとする、数々のコンピュータが開発された。「富士通信機製造」は1967(昭和42)年に「富士通」へ改称、日本を代表する総合エレクトロニクスメーカーへ発展した。現在は「富士通」の研究・開発の拠点である「本店・川崎工場」となっている。

1936(昭和11)年に開設された「日本電気 玉川向工場」 MAP __

「日本電気(NEC)」は1899(明治32)年、日本初となる外国資本との合弁会社として誕生。電話交換機など通信機器の製造を行っていた。工場は都内の三田と芝浦にあったが、1935(昭和10)年、川崎市下沼部玉川向(現・中原区下沼部)に5万3,000㎡の用地を購入し、翌1936(昭和11)年に「玉川向工場」を開設した。その後、都内の工場機能が次々と移転され、1938(昭和13)年には6万4,284㎡に達し、生産高でも「三田工場」を上回る規模となるなど、中核工場として重要性は増していった。 【画像は昭和30年代】

戦後、「玉川事業所」「玉川製造所」などへの改称を経て、現在は「玉川事業場」と呼ばれている。1997(平成9)年、「NEC創立100周年事業」として事業場の一部の建て替えが発表された。「NEC玉川ルネッサンスシティ」として2005(平成17)年までにサウスタワー、ノースタワー、ホール棟の高層ビル群が竣工、大規模な研究開発拠点となった。

「東京航空計器」の工場は接収を経て「川崎市中原平和公園」に MAP __

「東京航空計器」は1937(昭和12)年、「東京計器製作所」の航空計器関係部門を分離して設立され、本社工場が川崎市木月(現・中原区木月住吉町)に置かれた。この工場では水平儀、旋回計、磁気コンパスなどを製造していた。戦後、米軍に接収され「木月米陸軍出版センター」として使用された。【画像は1939(昭和14)年】

1975(昭和50)年に全面返還となり、跡地には1980(昭和55)年に「神奈川県立住吉高等学校」(写真左奥)が開校、1983(昭和58)年には「川崎市中原平和公園」が開園した。1992(平成4)年には公園の一角に「川崎市平和館」(写真右)が設置された。写真手前は「二ヶ領用水」。

「東京機械製作所」は「グランツリー武蔵小杉」に MAP __

1937(昭和12)年、川崎市新丸子(現・中原区新丸子東)に「東京機械製作所」の輪転機(印刷機)、工作機械の専門工場として「玉川製造所」が新設された。ここでは戦前から戦後にかけて、工作機械の第一号機・R型工具旋盤をはじめ、凸版輪転機、オフセット輪転機、タワー型輪転機、シャフトレス型輪転機など、同社の主力製品を製造、1985(昭和60)年には「技術センター」も開設された。【画像は1939(昭和14)年頃】

2011(平成23)年、同社の工場は木更津市の「かずさテクノセンター」に移転。跡地には2014(平成26)年に複合商業施設「グランツリー武蔵小杉」が開業、2016(平成28)年にタワーマンション「シティタワー武蔵小杉」が竣工した。


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