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「多摩川」沿川の行楽地として発展した上丸子

「多摩川」は、飲料水・農業用水の水源や漁場となるばかりでなく、沿川に観光資源ももたらした。上丸子一帯には、美味で知られた鮎や川遊びを求めて多くの行楽客が訪れ、料亭・旅館も多く誕生。夏には花火大会も開催された。広い河川敷を利用する形で、日本初の常設モーターサーキット「多摩川スピードウェイ」も造られた。


「多摩川」の鮎を提供した料理旅館「鈴半」 MAP __

「多摩川」の鮎は、江戸期に美味な食材として知られるようになった。明治期に入ると、行楽として鮎釣りが行われるようになったほか、屋形船を出して鮎漁を見物させ、その鮎を料理して提供する料理屋も人気となり、上丸子では「鈴半」「多満や」などの料理旅館が客を集めた。写真は大正末期、「丸子の渡し」の渡船場そばに建物を構えていた「鈴半」の表玄関。【画像は大正末期】

写真は「鈴半」の屋形船。大正期から昭和前期にかけて行われた「多摩川改修工事」により河川敷は大幅に広げられ、「鈴半」をはじめ、集落は新しく造られた堤防内に移転となったが、「鈴半」は移転後も大いに賑わったという。【画像は1918(大正7)年】

写真は移転前の「鈴半」があった「丸子渡し」の渡船場跡付近の様子。現在は堤外地(河川敷)となったため、かつての面影はない。「鈴半」は東向き、「多摩川」に向かって建っていた。写真正面のマンションの間が渡船場から延びていた旧「中原街道」、写真右端が「丸子橋」となる。

「へちま風呂」で有名だった「丸子園」 MAP __

1924(大正13)年、現在の中原区丸子通一丁目に開業した「丸子園」は、菓子製造などを行っていた実業家・大竹幾次郎が設けた従業員のための福利施設で、一般にも開放された。約3,000坪の広い敷地には100畳の大広間、大浴場の母屋があり、庭園には離れが点在、特にへちま模様にデザインされた浴場「へちま風呂」が有名で、「多摩川」での川遊びとともに楽しまれた。その後、一帯が「新丸子三業地」(花街)へ発展すると、「丸子園」はその中心的な料亭として賑わったが、「太平洋戦争」が始まった1941(昭和16)年12月、「日本電気(NEC)」に買収され、同社の寮となった。【画像は大正後期~昭和戦前期】

「新丸子三業地」は、「太平洋戦争」中の空襲で大きな被害を受けたが、戦後に復興、最盛期には「花本」「柳家」などの料亭が25軒ほど、芸妓は100人を数えるまでに発展した。しかし1970年代頃までに衰退となり、料亭の跡地はマンションやビル、自動車販売店、ボウリング場などになった。「丸子園」跡にあった「日本電気(NEC)」の寮は2007(平成19)年に売却され、現在はマンションや駐車場(写真中央)などになっている。

大正末期に始まった「丸子多摩川大花火大会」

丸子園」の二代目・大竹静忠は、1925(大正14)年、故郷の愛知県から「三河花火」の職人を呼び寄せて、「丸子多摩川大花火大会」を開催。1929(昭和4)年からは「東京横浜電鉄」(現「東急」)と「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)などの後援により開催されたが、「太平洋戦争」により中断。戦後は1949(昭和24)年に復活した。写真は1952(昭和27)年開催時の様子。【画像は1952(昭和27)年】

その後、「丸子多摩川大花火大会」の来場者は100万人を超えるという人気の風物詩となったが、渋滞など周辺交通への影響も大きくなり、1967(昭和42)年の開催を最後に中止となった。写真は1966(昭和41)年開催時の様子。近年、丸子の地元有志により花火大会の復活に向けての動きがあり、2020(令和2)年に試し打ち、2021(令和3)年には「丸子多摩川観光協会」主催の「丸子の渡し花火」が行われた。【画像は1966(昭和41)年】

日本初の常設モーターサーキット「多摩川スピードウェイ」 MAP __

東京横浜電鉄(現・東急)東横線の「多摩川橋梁」の北側の河川敷に1936(昭和11)年、日本初の常設モーターサーキットである「多摩川スピードウェイ」が誕生した。ここには、かつて青木根集落があったが「多摩川改修工事」により集落は移転となり、河川敷が大幅に広げられた場所であった。長径450m、短径260mの楕円形、1周1,200mの左回りコースで、「東京横浜電鉄」(現「東急」)が5万坪の土地と7万円の資金を提供し、篤志家が3万円の寄付を行い建設された。この年には「第1回全日本自動車競走大会」が開催され、のちに「本田技研工業」を創業する本田宗一郎も自作のレーシングカー「ハママツ号」で参加したが、大きな事故を起こしている。大会は1938(昭和13)年の第4回まで続いたが、「国家総動員法」の発令によるガソリン統制などが影響し、以後のレースは中止された。戦後は、オートバイなどのレースも行われ、1949(昭和24)年にはオートレースの創設を目指して「全日本モーターサイクル選手権大会」も開催された。

写真は昭和戦前期の撮影で、橋は手前から「東京横浜電鉄 多摩川橋梁」、「丸子橋」、「品鶴線 多摩川橋梁」。手前の大きいトラックが「多摩川スピードウェイ」で、右に堤防に造られたスタンドが見える。奥には、「青山学院」のグラウンド(「東京横浜電鉄 多摩川橋梁」と「丸子橋」の間)を挟んで、「東京横浜電鉄」が経営していたグラウンド「多摩川オリンピア」が広がる。右岸側は「第一多摩川オリンピア運動場」(野球場11面など)、左岸側が「第二多摩川オリンピア運動場」(野球場4面など)で、野球のほか、ラグビー、サッカーなどに利用された。

写真は1952(昭和27)年の「日米親善モーターサイクルレース」開催時の様子で、会場ゲートの上を東急東横線が通過している様子が写っている。【画像は1952(昭和27)年】

河川敷から「多摩川」上流を望む。「多摩川橋梁」は複々線化され、2000(平成12)年より東急目黒線も通るようになった。

写真は1952(昭和27)年の「日米親善モーターサイクルレース」開催時の様子で、堤防を利用した観客席が後方に写っている。【画像は1952(昭和27)年】

「多摩川スピードウェイ」の跡地の一角には、2016(平成28)年に「80周年記念プレート」が設置された。写真は2018(平成30)年に、「丸子橋第3広場」あたりから堤防を撮影したもので、「多摩川スピードウェイ」のコンクリートの観客席の跡が見える。この観客席跡は、2021(令和3)年、堤防強化の工事のため撤去されたが、一部分が切り出され、「80周年記念プレート」とともに堤防の上面に埋め込まれる予定となっている。【画像は2018(平成30)年】


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