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都市郊外としての発展

江戸期からの名所であった「洗足池」の周辺には、明治期に勝海舟の別荘も設けられた。昭和初期に周辺で住宅地開発が進む中、「洗足池」一帯は風致地区に指定され、豊かな自然の中の住宅地となった。荏原郡(現在の大田区、品川区など)の都市化が進んだ大正期には「多摩川」を水源とする水道も建設され、地域の発展を支えた。「多摩川」沿いでは、ガラス製温室を使った園芸農業が発達、「玉川温室村」と呼ばれ、都市部に出荷するカーネーションなどが栽培された。


勝海舟の別荘もあった風光明媚な「洗足池」

「洗足池」は『名所江戸百景』にも描かれるなど、江戸期から風光明媚な場所として知られていた。幕末期の1868(慶応4)年、「池上本門寺」において、勝海舟と新政府軍の間で、「江戸城無血開城」に向けた条件の調整のための会見が行われたが、勝海舟は池上に向かう際に立ち寄った「洗足池」の風景に惹かれ、1891(明治24)年に池畔(現在の「大田区立大森第六中学校」の敷地の一部にあたる場所)に農家風の別荘「洗足軒」を建設した。写真は1924(大正13)年出版の本に掲載されていた「洗足軒」。この建物は戦後に焼失した。 MAP __【画像は1924(大正13)年頃】

勝海舟は1899(明治32)年に亡くなり、墓は遺志により「洗足軒」裏の台地に設けられた。【画像は大正後期~昭和前期】

妻・民子は「青山墓地」に埋葬されたが、昭和20年代に改葬され、現在は勝夫妻の墓が並んで建っている。 MAP __

1920(大正9)年に設立された「財団法人清明会」は、勝海舟の遺蹟の保存と国民精神涵養のための図書の蒐集を目的とする日蓮宗系の精神修養団体で、1924(大正13)年には「洗足軒」の建物と隣接地を譲り受け、勝海舟の墓の南側に移築した。1928(昭和3)年、「洗足軒」に隣接して講堂兼図書館の「清明文庫」を完成させたが、1935(昭和10)年に活動を終えた。旧「清明文庫」の建物は、戦後の1954(昭和29)年に「学習研究社」の所有となり、別館(写真、1966(昭和41)年の撮影、のち「鳳凰閣」に改称)として利用された。【画像は1966(昭和41)年】

「鳳凰閣」の建物は2000(平成12)年に国登録有形文化財に登録、2012(平成24)年に大田区の所有となり、2019(令和元)年に「大田区立勝海舟記念館」として開館した。 MAP __

1930(昭和5)年、「洗足池」を中心とする約30haの区域が、東京府により「洗足風致地区」に指定され、近郊行楽地としての整備や自然と調和した住宅地の開発が進められた。1933(昭和8)年には「洗足風致協会」が設立され、翌年、協会の事業として、目黒蒲田電鉄(現・東急)大井町線の「洗足公園駅」(現「北千束駅」)高架化の際の残土を利用し「洗足池」内に「弁天島」が造成され、島内には「厳島神社」が再建された。この「厳島神社」は古来より池辺の一角に祀られていたものであったが、風雨にさらされ朽ち果てていたという。写真は1932(昭和7)年頃、「弁天島」の造成前の撮影。【画像は1932(昭和7)年頃】

写真は現在の「洗足池」で、写真左の神社がある島が「弁天島」。「洗足風致協会」は現在に至るまで地区の自然環境と風致を守るための活動を行っている。 MAP __

「玉川水道」の施設

「玉川水道株式会社」は私営の水道会社で、1918(大正7)年に設立、給水を開始した。水源は「多摩川」の表流水で、「亀甲山」の麓に作られた「調布取水場」で取水、「調布浄水場」を経由して「玉川浄水場」と「池上配水場」へ送り、品川町、大森町、玉川村、碑衾(ひぶすま)村など荏原郡14町村(現在の大田区、品川区など)に給水した。1935(昭和10)年に東京市に買収され、「東京市水道」の一部となった。写真は1933(昭和8)年頃撮影の「玉川浄水場」。 MAP __【画像は1933(昭和8)年頃】

水源の「多摩川」の水質悪化により、1970(昭和45)年に水道用としては取水が停止となり、「玉川浄水場」の水道事業は休止となったが、1979(昭和54)年に工業用水として取水が再開され、現在に至っている。敷地の一部(「玉川給水所」の上部)は「ぽかぽか広場」(写真)として開放されている。 MAP __

「玉川水道」は「多摩川台住宅地(田園調布住宅地)」にも給水を行った。写真は1927(昭和2)年頃撮影の「調布浄水場」の沈殿池。造成にあたり、「亀甲山古墳」の一部が削られた。浄水場は1967(昭和42)年に廃止。跡地は「多摩川台公園」の一部として整備され、沈殿池跡は水生植物園、濾過池跡は野草植物園になっている。 MAP __【画像は1927(昭和2)年頃】

日本の近代花き園芸発祥の地「玉川温室村」

昭和初期、現在の世田谷区玉提一丁目から大田区田園調布四・五丁目にかけての「多摩川」沿いの一帯ではガラスの温室による花きなどの栽培が盛んに行われた。この地で最初の温室「荒木温室」が開かれたのは1923(大正12)年。翌年、2番目となる「二項園」も開かれ、その後、温室栽培を行う農園が次々に誕生、「玉川温室村」「田園調布温室村」と呼ばれるようになった。ここでは、カーネーションやスイートピーといった洋花や、メロン、イチゴなどの果物が栽培され、1940(昭和15)年頃には、経営面積は約42,000m2にも広がった。全国各地から経営・技術を学ぶ研究生が集まったほか、多くの見学者もやってきた。写真は昭和初期のもので、「多摩川」の堤防から「温室村」を望んでいる。【画像は昭和初期】

「二項園」は開園から2年後に「森田二項園」と「烏丸二項園」に経営が分かれた。画像は1934(昭和9)年頃の温室を示した地図・表で、「二項園」があった場所は、現在の「東京都立田園調布特別支援学校」付近となる。表には農園名、園主名、温室棟数、主な栽培作物などが記載されており、「森田二項園」が最大の規模を誇っていたこと、ほとんどの農園でカーネーションが栽培されていたことなど、当時の「温室村」の様子を窺い知ることができる。【図は1934(昭和9)年頃】

1994(平成6)年、世田谷区側としては最後まで残っていた温室が取り壊され、現在、跡地には「温室村」の石碑が建てられている(写真)。大田区側では、1941(昭和16)年創業の「八光園」が唯一温室での生産を続けているが、現在は花き栽培ではなく、観葉植物のレンタルを行っている。 MAP __(石碑の場所)

現在、温室の跡地は、主に住宅やマンションとなっており、面影はあまり感じられないが、バスの停留所に「玉川温室村」の名が残されている(写真)。 MAP __


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