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九州の中心地・熊本

かつては全国で4か所のみ設置された鎮台もあった熊本。国の出先機関の多くが集まるなど、熊本県のみならず、九州の中心地としても発展した。戦後、福岡などに移転した機関もあるものの、「九州財務局」「九州農政局」「九州総合通信局」など、現在でも重要な機関が熊本を拠点としている。


「熊本城」に司令部があった「第六師団」 MAP __

1871(明治4)年4月、明治政府は小倉に「西海道鎮台」を設けたが、同年8月に廃止して熊本に「鎮西鎮台」を設置、本営は旧藩主の「花畑屋敷」跡に置かれ、管轄地は九州と中国地方西部とされた。1873(明治6)年の鎮台条例によって「鎮西鎮台」は「熊本鎮台」と改められ、九州全域が管轄地とされ、翌年、本営は「熊本城本丸」へ移された。1888(明治21)年、組織改変により「熊本鎮台」は「第六師団」となり、師団司令部や「歩兵第十三聯隊」などは「熊本城」に駐屯し、軍都として発展することになる。その後、「第六師団」は「日清戦争」や「日露戦争」などに出兵し戦果を挙げた。写真は「熊本城本丸」内に設置された「第六師団」の司令部と築城記念の銀杏の木。【画像は昭和戦前期】

司令部は「本丸」内の「天守台石垣」東側にあり、跡地は「天守閣前広場」になっている。司令部前にあった銀杏の木は加藤清正によって植えられたと伝わっており、「西南戦争」の際に焼失したが、焼け残った根本からでた脇芽が成長し現在に至る。

たばこの栽培が盛んな熊本に置かれた専売局 MAP __

明治政府は国の財源確保のため、1898(明治31)年に「葉煙草専売法」、1904(明治37)年に「煙草専売法」を施行し、たばこの製造・販売は「大蔵省」(現「財務省」)が管理するようになった。熊本では1898(明治31)年に「熊本葉煙草専売所」が開設。1910(明治43)年には「専売局熊本製造所」、1911(明治44)年には「熊本専売局」が「新市街」に移転した。写真は昭和戦前期の局舎。熊本で江戸時代から行われてきた、たばこの栽培は明治期以降盛んになり、近年では、熊本県は全国1位の作付面積となっている。【画像は昭和戦前期】

戦後、専売局は「日本専売公社」(現「JT」)となり、1971(昭和46)年に千葉城町に移転した。跡地には、1973(昭和48)年に「熊本交通センター」に併設される形で、「岩田屋伊勢丹ショッピングセンター」が開業。その後「熊本岩田屋」「くまもと阪神」「県民百貨店」と屋号や経営主体を変えて営業を続けてきたが、2015(平成27)年に一帯の再開発に伴い閉店、2019(令和元)年に「熊本桜町バスターミナル」も含む複合商業施設「SAKURA MACHI Kumamoto」が開業した。なお、千葉城町にあった「JT 熊本支社」は、「熊本地震」で被災し2015(平成27)年に再移転、跡地は熊本市が取得し、現在は崩落した石垣の石材の仮置場として使用している。

九州地方を管轄した「熊本逓信局」 MAP __

1886(明治19)年、「逓信省」は全国に15か所、逓信管理局を設置。熊本には沖縄県を含む南九州4県を管轄する「熊本逓信管理局」が設置された。1913(大正2)年、官制改正に伴い全国で5局に統合されたことにより「九州逓信局」に改称、九州地方全体を管轄するようになったのち、1919(大正8)年に「熊本逓信局」へ改称となった。写真は「日本放送協会(NHK)熊本放送局」(右)と並んで建つ、昭和戦前期の「熊本逓信局」の局舎(左、1928(昭和3)年完成)。「逓信省」(現「総務省」の一部)は、1885(明治18)年に設置された郵便・通信を管轄する中央官庁で、現在の「日本郵政(JP)」「日本電信電話(NTT)」の前身でもある。【画像は昭和戦前期】

「熊本逓信局」の跡地は、現在「熊本市役所」の本庁舎(写真中央、1981(昭和56)年に完成)となっている。「NHK熊本放送局」の跡地は市役所の駐車場。


九州の中心として発展

「熊本地方合同庁舎」

「熊本駅」近くにある「熊本地方合同庁舎」には「九州農政局」「九州総合通信局」など九州全体を管轄する行政機関をはじめ、多くの国の出先機関が入る。
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昭和戦前期の熊本市街の地図

九州随一の都市だった昭和戦前期の熊本市街の地図。【図は昭和戦前期】

明治政府は「鎮西鎮台」(のちの「熊本鎮台」)を設置し、1877(明治10)年に勃発した「西南戦争」では、西郷隆盛率いる「薩摩軍」の攻撃から「熊本城(鎮台)」を守り抜いている。この「熊本鎮台」は1888(明治21)年に「第六師団」と改称し、九州における陸軍の中心部隊となっていった。

明治期から大正期にかけて、熊本には多くの政府の出先(地方)機関が置かれた。そのひとつが全国に5校設置された、高等中学校のナンバースクール「第五高等中学校」。1887(明治20)年に開校したこの学校は、1894(明治27)年に「第五高等学校」と改称した後も、九州の高等教育の中心となり、多くの英才を世に送り出した。この「五高」では嘉納治五郎が第三代校長を務め、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らが教壇に立った。その後、福岡との「九州帝国大学」誘致競争には敗れたが、1949(昭和24)年に新制大学として「熊本大学」が設置された。

このほかにも、「逓信省」(現「総務省」の一部)の出先機関である「熊本逓信局」や、「大蔵省」(現「財務省」)の専売部門を担当する「専売局熊本支局」などが置かれ、九州の中心的な地位を誇っていた。「日本銀行」も1917(大正6)年に「熊本支店」を開設。これは全国で12番目、九州で2番目の支店で、熊本県、鹿児島県、宮崎県、沖縄県を管轄していた。


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