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美しい海に恵まれた金沢の地

中国の『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』になぞらえて生み出された『金沢八景』は美しい風景で知られ、鎌倉時代以降、多くの文人墨客が訪れる景勝地となった。江戸時代には、「平潟湾」で埋め立てや新田開発が行われ、「泥亀(でいき)新田」「平潟(ひらかた)塩田」が誕生した。また、江戸時代から栄えた「柴漁港」は、現在、横浜市内に残る二港の漁港のうちの一つで、「江戸前」のシャコ、アナゴなどの水揚げ港となっている。


永島家が開発した「泥亀新田」 MAP __

かつての「平潟湾」は、深く内陸部に入り組み、鎌倉幕府の外港としての役割を果たしていた。その「平潟湾」北側の「瀬戸入海」と呼ばれた入江は、1668(寛文8)年、「湯島聖堂」の儒官だった永島祐伯により埋め立てが行われ、新田の開発が始まった。この開発事業は永島家の子孫によって続けられ、18世紀に開発された「金沢入江新田」は、祐伯の号「泥亀」から名を取り「泥亀新田」と呼ばれるようになった。その後、台風による高潮で新田は被害を受けるも、永島段右衛門亀巣(だんえもんきそう)らの尽力で復興した。図は1852(嘉永5)年に出版された絵図であるが、1700(元禄13)年前後の湾岸線を踏襲しており、開発以前はこのような湾岸線だったと考えられている。【図は江戸後期】

新田開発の功績を讃えて1884(明治17)年に建てられた「永島亀巣之碑」は、現在は「野島」内の住宅地で見ることができる。
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江戸時代から栄えた「柴漁港」 MAP __

「柴漁港」は江戸時代から栄えた漁港で、付近の集落名から「小柴」とも呼ばれる。ここに漁業集落ができたのは鎌倉時代ともいわれている。「江戸前」の魚の南限とされ、シャコやアナゴが「小柴」の特産品。写真は「柴漁港」北の高台からの撮影で、上方に「洲崎」、その左に「野島」が見える。
MAP __(撮影地点)【画像は明治初期】

写真は現在の同地点付近からの撮影で、左手前の水面部分が「柴漁港」。撮影地点周辺は「柴農業専用地区」(1991(平成3)年指定)、市民農園「柴シーサイドファーム」(1998(平成10)年開園)となっている。

『金沢八景』の一つ「乙舳帰帆」 MAP __

『金沢八景』の一つ、「乙舳帰帆(おっとものきはん)」。『瀟湘八景』の「遠浦帰帆(えんぽきはん)」に比される、美しい海岸線が続く場所であり、歌川広重の浮世絵『金沢八景』では、「乙舳海岸」から小柴の岬(図の左側)へ向かう帆船の様子が描かれた。「乙舳」は古くは町屋村(現在の平潟町から柴町あたり)の地名であった。【図は江戸後期】

「乙舳帰帆」として描かれた場所は埋め立てられ、このあたりの海岸線は東側へ200m以上移動している。海岸沿いには1988(昭和63)年に「海の公園」(写真)が開園しており、美しい砂浜と松林が整備され潮干狩りも楽しめるほか、夏には横浜市内唯一の海水浴場となる。写真左が小柴の岬。右奥には複合型海洋レジャー施設の「横浜・八景島シーパラダイス」(1993(平成5)年開業)が見える。

干潟に降りる雁が描かれた「平潟落雁」 MAP __

『金沢八景』の一つである「平潟落雁(ひらかたのらくがん)」。古来の「平潟湾」の入江は大きく、江戸時代に「泥亀新田」として干拓され、海岸近くは「平潟塩田」となり、製塩が行われた。歌川広重による浮世絵「平潟落雁」では、この浅瀬で貝を採る人々が描かれ、遠景の「乙舳」の海に漁船と雁の列(落雁)が見える。右は「野島」で、島につながる砂州も描かれている。【図は江戸後期】

夕景の美しさで知られた「平潟湾」は、人家が建ち並んだ今も、人と自然が調和した風景を見ることができる。干潮時には江戸時代同様、湾内に天然の干潟を見ることができる。


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