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戦前神戸のレジャースポット「諏訪山」

「諏訪山」は、神戸の中心地から近く、神戸市内を眺望するために最適の場所だった。戦前は、「諏訪山」に動物園や温泉もあり、神戸から近場のレジャースポットだった。


「諏訪山」の「金星台」から眺めた神戸市 MAP __

1874(明治7)年、金星の太陽面通過観測のため、当時の科学先進国の天文学者たちが、世界各地に観測隊を送った。日本に来た観測隊は、横浜・長崎、そして神戸に分散し、神戸では「諏訪山」の中腹で観測がなされた。そのため、この展望台は「金星台」という名前が付けられた。この観測の結果、日本の経度が確定し、日本標準時の子午線が明石に定められた。また、観測隊の一員に清水誠氏が参加し、日本人で初めて金星の太陽面通過を撮影した。

写真は「諏訪山」の「金星台」から望む「神戸港」で、中央付近の大通りの左に見えるオレンジ色の屋根の建物が1902(明治35)年に竣工した「兵庫県庁」(現「兵庫県公館」)。写真中央付近に見える庭園は「小寺邸」の「蘇鉄園」。神戸市長も務めた小寺謙吉氏の生家で、「蘇鉄園」は1885(明治18)年頃から築造が始められ1911(明治44)年に完成、1941(昭和16)年に神戸市へ寄贈され、「相楽園」として公開されるようになった。手前側角のオレンジ色の建物は現在も「旧小寺家厩舎」(1910(明治3)年頃竣工)として残り、重要文化財に指定されている。 【画像は大正後期~昭和初期】

現在の「諏訪山公園」の「金星台」からの眺望。写真中央のダークブラウンの建物が現在の「兵庫県庁」で右から「1号館」「2号館」「3号館」。「兵庫県公館」は「2号館」の後ろになる。「相楽園」は木陰・建物の陰になっていてわかりにくいが、「1号館」の手前に緑地の一部が確認できる。

「諏訪山動物園」MAP __

「諏訪山動物園」は1928(昭和3)年、「諏訪山公園」内に開園した。戦時中、ほかの動物園同様、命令による猛獣の殺処分が行われ、戦後の1946(昭和21)年に食糧事情の悪化から閉園。残っていた動物たちは、1951(昭和26)年に「王子動物園」が開園すると移動していった。動物たちはトラック30台で運ばれたが、トラックでの運搬が困難だったゾウの諏訪子と麻耶子は、晴れ着姿で歩いて「王子動物園」へ移動した。この時、象は沿道に詰めかけた大観衆でパニックになり、2頭とも逃げ出すというハプニングもあった。

写真は1933(昭和8)年の園内の様子。上部が球形のケージをはじめ、多くのケージが見える。「諏訪山」の傾斜の高低差を活用し、ケージの上から動物の様子を観察することもできた。【画像は1933(昭和8)年】

現在「諏訪山動物園」の跡地は「諏訪山公園 こどもの園」になっている。園内には動物園時代のケージの形が残っている部分もある。写真は現在の様子で、古写真にある上部が球形のケージは中央奥付近にあった。

「諏訪山温泉」MAP __

1872(明治5)年頃、「諏訪山」のふもとで鉱泉(炭酸泉)が発見され、1873(明治6)年に温泉料亭「常盤花壇」が開業、遊覧地(現「諏訪山公園」)も設けられた。その後、多くの料亭・旅館が開業し温泉街として発展。開業前、人口十数人だったという集落が1883(明治16)年には約300人に増え、来訪客は日に500人を数えるほどまでに賑わうようになった。しかし、「太平洋戦争」中の空襲で一帯を焼失し衰退。現在は住宅地などになっている。【画像は明治後期~大正初期】

「宇治川」が暗渠になってできた「ハーバーロード」

「栄町通」の西端に位置し、「神戸駅」にも近い「宇治川筋」には、明治初期から銀行やホテル、郵便局、電信局といった施設の洋館が並んだ。現在、この付近は暗渠化され、道路の下を川が流れている。


「宇治川」河口にあった「三井銀行 神戸分店」

明治初期「為換座三井組」の「神戸分店」が元町に置かれ、その後「宇治川」河口の弁天浜に「三井銀行 神戸分店」が開設された。この建物は1879(明治12)年から「神戸病院附属医学所」(のち「神戸医学校」、現「神戸大学 医学部」)の仮校舎となった。1886(明治19)年、この一帯を「宮内省」が買い上げ、明治天皇の御用邸が置かれた。「三井銀行 神戸分店」の正確な場所は不明であるが、「神戸ハーバーランドumie」の立体駐車場がある交差点の角に「明治天皇御用邸址」の碑が建てられている。
MAP __(明治天皇御用邸址)【画像は明治初期】


マッチ産業が盛んだった神戸

「大同燐寸株式会社」の工場

「大同燐寸株式会社」の工場。現在の兵庫区下沢通六丁目にあった。
MAP __ 【画像は昭和初期】

マッチのラベル

マッチのラベルに描かれた商標は、その製品がどの会社で作られ、どんな品質かを表す重要な役割を果たした。デザインも独特なものが多く、特に動物や植物をあしらったものが好まれた。

神戸は明治時代、マッチ産業が盛んだった。「諏訪山」で金星の太陽面通過を観測したフランス隊の中に、フランスに留学し理工学を学んだ清水誠氏がいた。留学生時代、マッチ製造について研究を始め、帰国後の1876(明治9)年、東京の本所柳原町にマッチの大工場を造り、「新燧社」を設立した(社名の「燧」は、火打ち石のこと)。清水氏は、寛大にもマッチ製造を始めたい人たちに、技術を教えるのみならず、原料や製造機械の調達まで手伝った。神戸にはマッチ製造会社が続々と立ち上がり、当時の日本の主力輸出産業にまで発展した。そして、神戸は明治・大正期の主要なマッチ生産地となった。

写真は、「大同燐寸株式会社」の工場。「大同燐寸」は1927(昭和2)年、「スウェーデン燐寸」「東洋燐寸」「日本燐寸」「公益社」の合弁によって設立された。この会社は、現「兼松サステック」の前身となる。



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