江戸時代の「東海道」の起終点は、京都の「三条大橋」であったが、その先の大坂に至るルートとしては、陸路の「京街道」とともに、「淀川」を水路として利用した。「淀川」を上り下りし、伏見の京橋などと大坂の八軒家などを結んでいたのが、「三十石船」と呼ばれる客船。三十石の米が積めることから名が付いたが、船頭4、5人と、約30人の客を乗せることができた。伏見を出る下り船は川の流れを利用したが、上り船は船頭の棹(さお)とともに男たちが綱を引いて「淀川」を遡った。この船の旅の様子は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』や上方落語『三十石』の中でも描かれている。
江戸時代、伏見は京都と大坂を結ぶ水上交通の要衝となった。特に、舟運においては、「高瀬川」の開削により、「伏見港」が「淀川」を経由して大坂に向かう「三十石船」の発着港となって、「寺田屋」など多くの船宿が置かれた。また、明治維新期に起こった「戊辰戦争」は、この地の「鳥羽・伏見の戦い」で幕を開けている。