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江戸時代、京都と大坂を結ぶ交通の要

江戸時代、伏見は京都と大坂を結ぶ水上交通の要衝となった。特に、舟運においては、「高瀬川」の開削により、「伏見港」が「淀川」を経由して大坂に向かう「三十石船」の発着港となって、「寺田屋」など多くの船宿が置かれた。また、明治維新期に起こった「戊辰戦争」は、この地の「鳥羽・伏見の戦い」で幕を開けている。


伏見と大坂を結んだ、「淀川」の「三十石船」 MAP __(三十石船乗り場) MAP __(十石船乗り場)

江戸時代の「東海道」の起終点は、京都の「三条大橋」であったが、その先の大坂に至るルートとしては、陸路の「京街道」とともに、「淀川」を水路として利用した。「淀川」を上り下りし、伏見の京橋などと大坂の八軒家などを結んでいたのが、「三十石船」と呼ばれる客船である。三十石の米が積めることから名が付いたが、船頭4、5人と、約30人の客を乗せることができた。伏見を出る下り船は川の流れを利用したが、上り船は船頭の棹(さお)とともに男たちが綱を引いて「淀川」を遡った。この船の旅の様子は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』や上方落語『三十石』の中でも描かれている。この絵図は、「淀川」を進む「三十石船」を描いたもので、京都の名所を描いた『京都名所之内』に収録されている。【図は1834(天保5)年頃】

現在、伏見では水路巡りの観光船として「三十石船」「十石舟」が再現され、「濠川」と「宇治川派流」で季節運航が行われている。

坂本龍馬が襲われた事件の船宿「寺田屋」 MAP __

船宿の「寺田屋」は、幕末に起きた2つの「寺田屋事件」の舞台として有名である。最初の事件は1862(文久2)年、「寺田屋」に集結していた有馬新七(しんしち)ら薩摩藩の尊皇志士が、同藩の島津久光の命により鎮撫・弾圧されたことをいう。1866(慶応2)年に発生した「寺田屋事件」では、伏見奉行の命により、土佐藩の志士、坂本龍馬らが襲撃された。この事件で龍馬は傷を負いながらも、薩摩藩邸に逃げ込んで九死に一生を得た。【画像は大正期】

「鳥羽・伏見の戦い」で焼失、後に再建された「寺田屋」は、現在でも旅行者が宿泊することができる。

「戊辰戦争」の口火を切った「鳥羽・伏見の戦い」 MAP __(「鳥羽伏見の戦い勃発の地」碑)

幕末、江戸幕府第十五代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)による「大政奉還」が行われた後、1868(慶応4・明治元)年1月、慶喜がいる「大坂城」から京を目指した会津藩、新選組などの徳川幕府軍と、薩摩藩を主力とする新政府軍の軍勢が現在の京都市南部で衝突し、幕府軍が敗北した。この「鳥羽・伏見の戦い」は「戊辰戦争」の最初の戦いであった。新政府軍が陣を構えた、鳥羽の「城南宮」の西、「小枝橋」付近で砲火が開かれ、伏見でも両軍の激戦が始まった。鳥羽・伏見に続いて、南の淀、中島方面でも戦闘は行われている。戦いの後、慶喜は「大坂城」を脱し、船で江戸に向かった。絵図には、毛利や島津の旗指物が描かれており、長州、薩摩藩などの軍勢ということが分かる。また、中央左下(手前)には伏見と地名が、上(奥)側にかけては「淀乃城」など大阪の地名が赤枠で記されている。【図は明治期】

「鳥羽・伏見の戦い」において、新政府軍は「錦の御旗」を掲げた。「錦の御旗」は天皇の命による官軍であることを示すもので、幕府軍は賊軍(朝敵)の立場であるとされたため、幕府軍側の兵士に与えた精神的なダメージは大きかったといわれる。「戊辰戦争」で使用された「錦の御旗」は、1888(明治21)年、記録のため、政府が絵師・浮田可成に依頼し、正確に模写された『戊辰所用錦旗及軍旗真図』が作成された。図はその一部で、現在「国立公文書館」が所蔵、1998(平成10)年に国の重要文化財に指定された。【図は1888(明治21)年】

現在の伏見区中島御所ノ内町にある「鳥羽離宮跡公園」には、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」の碑が建てられている。


「名水百選」の「御香水」、地名には「伏水」とも MAP __(御香宮神社)

「御香宮神社」の表門(画像は明治後期)

「御香宮神社」の表門【画像は明治後期】

「京都盆地」の南端にあたる伏見は、「伏水」と書かれることもあるほど、豊かな水に恵まれた土地。古くは平安時代から香りのよい水が湧いたことから名が付いた「御香宮(ごこうのみや)神社」ゆかりの「御香水」がある。伏見の誇る名水として、1985(昭和60)年には「名水百選」に選ばれた。現在も水筒などを持参して境内にやってくる人も多い。伏見には、この「御香水」を含む「伏見七名水」が存在する。

伏見は「桂川」「宇治川」「木津川」が合流する場所であり、南には大きな「巨椋池」が存在する低湿地帯の北岸でもあった。この低湿地帯を城下町として整備したのが豊臣秀吉である。秀吉により大規模な治水工事が行われ、「宇治川」が「巨椋池」と切り離されて、「伏見城」築城の際に開かれた「濠川」との合流地には「伏見港」が置かれた。

江戸時代には角倉了以・素庵親子により京都から南下する「高瀬川」が開かれ、また、大坂と京都・伏見を結ぶ「三十石船」の発展により、京坂の舟運の中継地となった「伏見港」の存在はより大きくなった。さらに、明治時代には「琵琶湖疏水」が開かれて、大津までが結ばれることとなり、「伏見港」を経由した舟運の役割も増した。

この豊かな水の恵みや交通利便性が、伏見の「日本酒」(酒造)を育んできた。秀吉の時代に酒どころとなった伏見の酒造は、江戸時代に一時衰退するも、「笠置屋(かさぎや)」(現「月桂冠」)と「鮒屋(ふなや)」(現「北川本家」)の老舗2軒を中心に、明治時代には勢いを取り戻し、現在は「キンシ正宗」「黄桜」といった酒造会社があり、酒蔵も建ち並ぶ。往年の姿を再現した「十石舟」「三十石船」で水路を巡るツアーでは、水上から酒蔵など伏見の街並みを楽しめる。


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