このまちアーカイブス INDEX

「京都盆地」を流れる心延えの川 「鴨川」


「東海道」の起終点「三条大橋」 MAP __

最初に「三条大橋」が架橋されたのは室町時代といわれ、戦国時代末期の1590(天正18)年、豊臣秀吉の命で日本初の石柱の橋に架け替えられた。江戸時代になると、江戸方面から「東海道」を上ってきた人々は、この「三条大橋」で「鴨川」を渡って都の地を踏んだ。写真は明治後期の様子で、橋の先に旅館・土産物店などが建ち並んでいる。右に見える店舗は、1905(明治38)年創業で、現在もこの地で営業を続ける五色豆の「船はしや」。【画像は明治後期】

現在の「三条大橋」の上から西方面の「三条通」を望む。現在の橋は1950(昭和25)年に架け替えられたもので、木製の高欄は1974(昭和49)年に修復されていたが、近年傷みが激しくなったため「ふるさと納税」などの寄付により補修・修景が行われることになり、2022(令和4)年に着工、2024(令和6)年に補修が完了した。擬宝珠はかつての橋のものが再利用されており、中には「天正十八年」の銘が入るもの、幕末期の「池田屋事件」の刀傷跡と伝わる傷が残るものも見られる。

「四条大橋」と「鴨川」、水の恵みはときに災いに MAP __(四条大橋)

平安時代の権力者、白河天皇は『賀茂河の水、双六の賽、山法師』を『天下三不如意』と嘆いたといわれる。「平安京」の昔から、「鴨川」はときに氾濫し、京都人を悩ませた。写真は明治後期、流れが増した「鴨川」を見る人々の様子。左の建物はビヤホールの「矢尾政」。【画像は明治後期】

「四条大橋」は1942(昭和17)年に現在の橋へ架け替えられた。写真は南東側からの撮影。「矢尾政」はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏設計のモダンなビルに建て替えられ1926(大正15)年に竣工、終戦直後の1945(昭和20)年に「東華菜館」となり、現在も営業を続けている。
MAP __(東華菜館)

写真は1935(昭和10)年、「鴨川大洪水」のときの「四条大橋」西詰から東方面を望んだ様子。右の建物は1929(昭和4)年に建て替えられた松竹の劇場「南座(みなみざ)」、左の建物は1926(大正15)年竣工の洋食店「菊水館」。
MAP __(南座)【画像は1935(昭和10)年】

現在の「四条大橋」の西詰から東方面を望む。「菊水館」は1955(昭和30)年に「レストラン菊水」へ改称、現在も洋食店として営業を続けている。
MAP __(レストラン菊水)

牛若丸ゆかりの「五条大橋」 MAP __

『京の五条の橋の上…』と歌われたのは「平安京」の昔、牛若丸と弁慶の物語。写真は1910(明治43)年、大阪(天満橋)~五条間が開通した時のもので、京阪電車を見物しようと群衆が集まっている。当時は「五条(現・清水五条)」駅が京都側の起終点だった。【画像は1910(明治43)年】

「五条大橋」の東詰北側から西側方面を望む。現在の橋は1959(昭和34)年に架け替えられたもの。京阪本線の地下化で、周辺の風景は大きく変わった。

「高瀬川」の曳舟 MAP __

「高瀬川」は江戸初期に「鴨川」の西に開かれた運河で、京都と伏見の間の水運を担い、「淀川」から諸国の物資を京都に運んでいた。写真は明治後期の「高瀬川」の風景。「高瀬舟」が上流へ向かう場合は、「曳き子」が舟を曳いて上った。【画像は明治後期】

「高瀬川」の舟運は1920(大正9)年に廃止された。写真は静かな流れを見せる現在の「高瀬川」。春には河岸の桜が美しい花を咲かせる。

川床の舞妓 古から伝わる京都人、夏の楽しみ MAP __

「お姉さん、ここは涼しおすなあ」「あんた、ええべべ(着物)濡らしたらあきまへんえぇ」。そんな会話が聞こえてきそうな、「三条大橋」の真下の風景。右岸(写真奥)には現在と同じような川床(ゆか)が見える。これが、昔の京都人の夏の楽しみ方だった。【画像は明治後期】

現在の様子。夏には、右岸に川床が並ぶ風景が見られる。


京都人にとっての「鴨川」 市民の川、そして観光の川

「賀茂川」と「高野川」が合流する出町柳付近の俯瞰

「賀茂川」と「高野川」が合流する出町柳付近の俯瞰。
【画像は昭和戦前期】

意外かもしれないが、姉妹都市であるパリ市を仲介にして、京都市と東京都も「兄弟姉妹」の関係になる。そこに類似点を見出すならば、「セーヌ河」に似た「鴨川」と「隅田川」の存在がある。

両者にはいくつかの共通点がある。まずはどちらも歴史のある街の東部において、南北に貫いて流れていること。さらに、古代より洪水などを繰り返し、治水に手こずったことも同じである。「隅田川」は、「利根川東遷」による付け替えが有名だが、「鴨川」でもかつては付け替え説が有力だった。また、その河原は現在よりも広く東西にまたがっていたと考えられている。

さらに、上流、下流での呼び名が異なるということも共通する。「鴨川」、「隅田川」ともに市街地ならではの名称で、市民が愛した名前だ。両者の川沿いには独自の文化、風習が生まれた。それは、特に芝居、芸能との結びつきである。京都においては、「鴨川」の西に「平安京」の「(東)京極」があり、ここは「洛外」(郊外)との境界だった。四条河原は、出雲の阿国が活躍した歌舞伎発祥の地とされ、「四条通」に面した「南座」は、伝統を受け継ぐ歌舞伎小屋(劇場)として、現在も年末の顔見世興行の舞台となっている。

白河天皇が嘆いた「鴨川」の暴れ水は有名だが、常時には恵みの方が大きかった。「友禅染」の「友禅流し」は、古き良き時代の京都の風物詩のひとつだった。豊かな水は生活用水として、人々の暮らしを支えてきた。もちろん、川沿いにある美しい風景は今も昔も変わらない。「鴨川」は、ここに住む人々の川であり、この地を訪れる人を魅了する川でもある。



次のページ 「京都市三大事業」


MAP

この地図を大きく表示


トップへ戻る