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戦前期の城南地区の産業

福岡市は江戸時代の「武士の町」福岡と「商人の町」博多に始まり、現在に至るまで、商業、流通、行政、教育など、いわゆる第三次産業を中心に発展した都市。古くより、素焼物や「博多織」「博多人形」など、工芸品の生産が特色であったが、明治中期以降に紡績業、ビール、靴、製紙など、軽工業・消費地立地の工場が城南地区の平野部を中心に見られるようになった。また、大正期には規模は小さいながらも市内に炭鉱が開かれた。周辺には優良な水田などの農業地域も拡がり、昭和初期には「大嘗祭」の「主基斎田」に選定されている。


鹿児島本線沿いに「大日本麦酒 博多工場」 MAP __

1921(大正10)年、「大日本麦酒 博多工場」が筑紫郡那珂村大字那珂(現・福岡市博多区竹下)に誕生した。昭和初期から昭和30年頃までの地図を見ると、国鉄(現・JR)鹿児島本線の「竹下駅」から引込線が描かれており、当時は鉄道によって、原材料や製品の輸送が行われていたことがわかる。1949(昭和24)年、「過度経済力集中排除法」により、「大日本麦酒」は「朝日麦酒」(現「アサヒグループホールディングス」)と「日本麦酒」(現「サッポロホールディングス」)に分割され、博多工場は「朝日麦酒」の工場となった。【画像は1921(大正10)年】

現在は「アサヒビール 博多工場」となっており、「アサヒスーパードライ」などの製品が生産されている。2022(令和4)年、佐賀県鳥栖市の「新九州工場」への移転が発表され、「博多工場」は2028年末に稼働を終える予定となっている。敷地内には6世紀中頃(西暦550年前後)に造られた「東光寺剣塚古墳」もある。
MAP __(東光寺剣塚古墳)

福岡市最大の工場だった「日本足袋 福岡工場」 MAP __

1892(明治25)年に石橋徳次郎氏が福岡県久留米市で仕立物業「志まや」を創業、1914(大正3)年に代表的商標である「波にアサヒ」マークが採用され、1918(大正7)年に「日本足袋株式会社」を設立した。写真は1928(昭和3)年、福岡市住吉(現・博多区美野島四丁目)に新設された福岡工場で、輸出ゴム靴専用の工場であった。1937(昭和12)年に「日本ゴム株式会社」と社名を変更。この頃に「アサヒ靴」は業界トップメーカーの地位を確立した。『博多商工会議所統計年報』(1937年 博多商工会議所発行)に記載されている「福岡市重要工産物(昭和11年中)」において、「護謨靴」は、製造社が1社のみで従業員数3,910人(市内計20,735人の約18.9%)、金額10,197,700円(市内計49,651,063円の約20.5%)と、他品目を圧倒的に抑えての最大の工産物であり、当時福岡市で最大の工場であったことが統計的に表れている。写真は「日本足袋」時代のもの。【画像は昭和初期】

写真は「日本ゴム」時代のもの。ちなみに、1930(昭和5)年に「日本足袋」のタイヤ部(久留米市)により初の純国産タイヤが誕生、翌年「ブリッヂストンタイヤ株式会社」(現「株式会社ブリヂストン」)が独立している。【画像は昭和初期~昭和中期】

「日本ゴム 福岡工場」は、1954(昭和29)年に閉鎖、1956(昭和31)年に「九州松下電器」となり、現在は「パナソニックグループ」の事業所となっている。「日本ゴム」は1988(昭和63)年に「アサヒコーポレーション」へ、さらに2017(平成29)年に「アサヒシューズ」へ社名変更している。

昭和初期まで鳥飼にあった「福岡炭坑」 MAP __

現在の城南区鳥飼一帯の地下に石炭層があることは明治20年代から知られていた。現在の早良区昭代一丁目にある「祖原(そはら)公園」の東南に位置していた「西新町炭鉱」は明治末期からに採掘が始められるが、出炭量は年産2~3万トンと小規模であった。1912(大正元)年、同地域に新たに有望な炭田が発見され、1914(大正3)年に「福岡鉱業株式会社」が設立となり、既存の「西新町炭鉱」の鉱区を含む「福岡炭坑」が開かれた。現在の城南区鳥飼四丁目の「福岡市立鳥飼小学校」付近に新たな坑口(「東坑」と称された)が開かれ、翌年から本格的に採炭が始められた。旧「西新町炭鉱」は「西坑」と称された。「福岡炭坑」では1917(大正6)年に「第二坑」(現・西区姪の浜付近)を本格的に稼働、翌年に「第三坑」(現・西区小戸付近)で採炭を開始している。出炭量は「第一次世界大戦」に伴う好況で増加し、「第一坑(東坑・西坑)」においては1916(大正5)年~1918(大正7)年に年産約12万トンとピークを迎える。その後、「第一坑(東坑・西坑)」の出炭量は減少し、1923(大正12)年~1925(大正14)年には年産約4万トンとなり、1927(昭和2)年の年産約1万4千トンを最後に出炭量の記録はなくなっている(正確な閉坑時期は不明)。

地図は「昭和元年十二月調製」と記載されている『福岡市及近郊実測図』の一部で、「福岡炭坑」の運炭軌道が描かれている(敷設年は不明)。「東坑」から「西坑」「第二坑」を経由し「第三坑」があった現在の西区小戸付近の埠頭まで引かれていた。【地図は1926(昭和元)年頃】

写真は、「東坑」の運炭軌道路線が通っていた場所。現在は「市営中浜町住宅」となっている。廃線の痕跡は鳥飼付近においては確認できない。「東坑」の軌道の始点の北側に描かれた等高線はボタ(石炭くず)山で、この場所に「福岡市立鳥飼小学校」が1951(昭和26)年に開校している。建設の際には周辺のボタを集め、積み上げて整地された。その名残から、現在も学校の敷地は1mほど周辺の土地より高くなっている。

「大嘗祭」での「主基斎田」に選定された脇山村 MAP __(撮影地点)

昭和天皇の「即位の礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」は1928(昭和3)年11月に京都で行われた。「大嘗祭」で用いる米は悠紀(ゆき)地方(京都より北・東)と主基(すき)地方(京都より南・西)より献上されるもので、「国郡卜定」(こくぐんぼくじょう・卜定は占いのこと)の結果、同年2月に主基地方は福岡県に決定。県は令達を受け「主基斎田」(すきさいでん)の選定作業に取りかかり、94ヶ所もの候補地の中から、早良郡脇山村(現・早良区脇山)に決定、3月15日に発表した。3月22日の「斎田起工式」にはじまり、「地鎮祭」「斎田鍬入式」などの儀式が行われ、6月5日~7日には「御田植祭」が行われた。その後「豊穰祈願祭」「風鎮祭」なども執り行われ、9月21日に「抜穂(ぬいぼ)祭」となった。10月、粒選(つぶより)された3石(約450kg)の供納米は、北九州鉄道「西新町駅」まで約14kmの行程を徒歩の行列で、京都までは鉄道及び鉄道連絡船で運ばれた。

写真は1928(昭和3)年の「主基斎田」。水田には苗が植えられており、田植えの時期に撮影されたものと思われる。奥に写っている建物は、神事などを行う祭場。【画像は1928(昭和3)年】

公園の周辺の水田では、現在も稲作が行われている。右奥に見える山は「西山」。

現在、「主基斎田」跡は「脇山中央公園」として整備され、園内には「大嘗祭主基斎田碑」が建てられている。
MAP __(大嘗祭主基斎田碑)


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