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「隅田川」沿いの庭園・邸宅地からの発展

川越しに浅草や「富士山」を望む「隅田川」の東岸沿いは、江戸期から風光明媚な地であり、大名の下屋敷(別荘)も多く置かれ、明治期に入ると、政府要人や実業家が別邸を構えるようになった。その後、広大な土地であることから、工業用地などに利用されたが、「旧安田庭園」のように、大名庭園・別邸時代からの歴史を伝える施設も残る。


ビール工場となった「浩養園」 MAP __

江戸期、「吾妻橋」の東、浅草の対岸となるこの地は、数家の大名の武家屋敷として移り変わった。1822(文政5)年、沼津藩の水野忠成の屋敷地となったとき、庭園が築造され「浩養園」と命名された。幕末の1860(万延元)年には、「久保田藩(秋田藩)佐竹家下屋敷」となった。庭園は「佐竹邸庭園」のほか、以前からの名称「浩養園」などと呼ばれ、1890(明治23)年より一般公開し、多くの人々の憩いの場となった。写真は明治後期の「浩養園」。【画像は明治後期】

1900(明治33)年、「札幌麦酒」は「浩養園」一帯の土地を購入しビール工場を建設。1903(明治36)年に「東京工場」として醸造が始められるとともに、「浩養園」を利用してビアガーデンを開業した。1906(明治39)年、合併により「大日本麦酒」の「吾妻橋工場」となった。写真は合併した年に「吾妻橋」から撮影した「大日本麦酒 吾妻橋工場」の全景。大正後期になると、工場の拡張のほか、「関東大震災」での被災もあり、大名庭園の面影は失われた。工場は戦時中の空襲でも大きな被害にあった。【画像は1906(明治39)年】

戦後の1949(昭和24)年、「大日本麦酒」は「日本麦酒」(現「サッポロビール」)と「朝日麦酒」(現「アサヒビール」)に分割され、「吾妻橋工場」はルーツである「サッポロ」ではなく、「朝日麦酒」の工場となった。「吾妻橋工場」は1985(昭和60)年に閉鎖、1989(昭和64)年元日に社名を「アサヒビール」へ改称。同1989(平成元)年、「吾妻橋工場」跡地の再開発地区「リバーピア吾妻橋」に「アサヒビールタワー」(写真奥の琥珀色のビールをイメージしたビル)と「スーパードライホール」(屋上にオブジェがある建物)や「住宅・都市整備公団」(現「UR」)のタワーマンション(写真右奥)などが完成。翌年には「墨田区役所」の新庁舎(「東京スカイツリー」の左に見えるビル)も完成している。写真左下は「隅田川」の水上バス「TOKYO CRUISE」の船「エメラルダス」。

「向島映画」が制作された「日活向島撮影所」 MAP __

1912(大正元)年、国内の映画制作会社4社が合併し「日本活動写真フィルム株式会社」(のちの「日活」)が誕生。翌年、隅田村堤外(現・墨田区堤通二丁目)の実業家・杉山茂丸の別邸の土地を買収し、「東京撮影所」(通称「日活向島撮影所」)が建設された。「グラスステージ」と呼ばれる、温室のような総ガラス張りの全天候型のスタジオで、当時は「東洋一のスタジオ」とも賞された。ここでは現代劇の映画が制作され、その作品は「向島映画」とも呼ばれた。1923(大正12)年の「関東大震災」では、被害は軽微だったものの、京都の撮影所へ統合されることになり閉鎖となった。この10年の間に、およそ760本もの作品が制作されている。写真は大正期の「日活向島撮影所」。【画像は大正期】

現在、跡地は「墨田区立桜堤中学校」となっており、一角には「近代映画スタジオ発祥の地」の案内板が建てられている。

写真は大正期、「隅田川」の「白鬚橋」から上流を撮影しており、写真右の巨大な建物が「日活向島撮影所」となる。「隅田川」ではレガッタが行われている。
MAP __(撮影地点)【画像は大正期】

写真は現在の「白鬚橋」から上流側の様子。右の川沿いに通る高架の道路は「首都高速6号向島線」で、道路上の緑色の標識の先あたりが「日活向島撮影所」の跡地となる。

庭園「八洲園」「小松島遊園地」から「リバーサイド隅田」へ MAP __

明治初期、「隅田川」の「橋場の渡」付近に実業家・小野義真(「小岩井農場」「日本鉄道」創設者の一人)の別荘があった。1884(明治17)年、芝「紅葉館」の分館として、庭園「八洲園」が公開され、その後、奥州・松島を模した改築を行い、「小松島遊園地」とも称するようになった。明治末期になり「加富登(かぶと)麦酒」が取得し、「東京工場」の建設予定地とした。写真は大正初期、「加富登麦酒」が取得した後の「小松島庭園」。この頃の「加富登麦酒」の社長は根津嘉一郎(当時「東武鉄道」の社長でもあった)が務めていた。

「加富登麦酒」は、1887(明治20)年に愛知・半田の醸造家の中埜家(のちの「中埜酢店」、現「ミツカン」)四代目が始めたビール会社を前身とする。1922(大正11)年に「日本麦酒鉱泉」となり、1933(昭和8)年に「大日本麦酒」に吸収された。当時の地図を見る限りでは、ここに「東京工場」は建設されなかったと思われる(「日本麦酒鉱泉 東京工場」は1924(大正13)年に埼玉県・川口に建設されている)。【画像は大正初期】

この場所には、浅草の「小穴製作所」が1930(昭和5)年に「向島工場」を建設、1937(昭和12)年より「日本電気(NEC)」の系列会社となり、1945(昭和20)年に「日本電気精器」へ改称した。この「向島工場」は1987(昭和62)年に廃止。跡地には、1994(平成6)年に「リバーサイド隅田」(写真)が誕生した。

「旧安田庭園」と「本所公会堂」 MAP __

江戸前期の1691(元禄4)年、足利藩(のちに宮津藩)本庄家は幕府からこの地を拝領し下屋敷を構え、庭園を築造。安政年間(1855~1860年)には「隅田川」の水を引き、潮入庭園に改修した。明治期に入ると、旧岡山藩主・池田章政邸となり、1900(明治33)年、「安田財閥」の創設者・安田善次郎が購入し本邸とした。1921(大正10)年、安田善次郎は暴漢に襲われて亡くなり、翌1922(大正11)年、遺志により、この邸宅・庭園が東京市に寄贈された。しかし、翌年の「関東大震災」で大きな被害を受け、東京市の復元整備ののち、1927(昭和2)年に市民の庭園「旧安田庭園」として開園した。写真正面の建物は後述の「本所公会堂」。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「旧安田庭園」。潮入庭園は、潮の満ち引きにより池の水位の変化が楽しめるものであったが、1965(昭和40)年頃に「隅田川」の水質悪化や堤防補強により水門が閉じられた。その後、1971(昭和46)年、ポンプにより満ち引きを人工的に再現するようになった。1996(平成8)年に東京都の名勝に指定された。

「本所公会堂」は1926(大正15)年、安田家の寄付金により「旧安田庭園」の一角に建設され、震災復興のシンボルともなった。写真は昭和戦前期の「本所公会堂」。1941(昭和16)年に「両国公会堂」へ改称。戦後は「GHQ」に接収されたのち、コンサートやイベントなどに活用されたが、2001(平成13)年に老朽化により使用停止。その後、保存も検討されたが耐震補強の関係で断念、2016(平成28)年に解体された。
MAP __【画像は昭和戦前期】

「両国公会堂」の跡地には「刀剣博物館」が建設され、2018(平成30)年に開館した。


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