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原爆投下と戦後の復興

1945(昭和20)年8月6日、広島に世界で初めて原爆が投下され、街は一瞬のうちに焦土と化した。広島の犠牲者はこの年だけで14万人を数え、人々の暮らし、地域社会は崩壊した。『75年は草木も生えぬ』と言われたが、翌年に「広島復興都市計画」が定められ、都市づくりが再開する。1949(昭和24)年には「広島平和記念都市建設法」が公布され、戦後の復興を後押しした。


「T字型」の珍しい「相生橋」、原爆投下の目標物に MAP __

1878(明治11)年、「本川」と「元安川」の分岐点の先端部分、「慈仙寺の鼻(じせんじのはな)」から2本の賃取り橋「相生橋(あいおいばし)」が「くの字型」に架けられ(左上図)、1894(明治27)年に広島市へ移管、無料の橋となった。その後、数度の架け替えや路面電車専用橋の架橋・再架橋を経て、1932(昭和7)年に道路と路面電車(広島電気軌道)が通る鋼鈑桁橋が竣工。従来からの「くの字型」の橋と併用されることになった(右上図)。1934(昭和9)年には、2つの「相生橋」を行き来する連絡橋が完成し「H字型」の橋に(左下図)。1939(昭和14)年に「くの字型」の橋が撤去され、連絡橋部分だけ残され「T字型」の橋となった(右下図)。【図は明治前期~昭和戦前期】

写真は昭和戦前期、「H字型」の時代の「相生橋」で手前に「くの字型」の橋の欄干が見える。【画像は昭和戦前期】

「相生橋」は、「T字型」という珍しい形から原爆投下の目標物とされ、爆心地から約300mという至近距離で被爆したが、落橋は免れた。路面電車は終戦翌月の1945(昭和20)年9月に渡橋を再開、並行して復旧工事が進められ、1949(昭和24)年に全面復旧となった。写真は復旧後、昭和戦後期の「相生橋」。【画像は昭和戦後期】

「相生橋」は老朽化のため、1983(昭和58)年、現在の橋に架け替えられた。中央部分には広島電鉄の本線が通っている。

「広島県産業奨励館」は、被爆を伝える「原爆ドーム」に MAP __

現在「原爆ドーム」として知られるこの建物は、1915(大正4)年、チェコ人の建設家であるヤン・レツル氏の設計による「広島県物産陳列館」として開館した。1919(大正8)年、ドイツ人捕虜カール・ユーハイム氏が日本で初めてバウムクーヘンの製造販売を行ったことでも知られる。1921(大正10)年に「広島県立商品陳列所」と名称が変わり、1933(昭和8)年に「広島県産業奨励館」とさらに改められた。【画像は大正期~昭和戦前期】

1945(昭和20)年8月6日、原爆投下の爆心地からわずか160mに位置したため、中央のドーム部分の枠組みと外壁を除いて全焼した。【画像は昭和戦後期】

1966(昭和41)年に「広島市議会」が「原爆ドーム」の永久保存を決議、1995(平成7)年に国の史跡となり、翌年に「ユネスコ」の「世界文化遺産」に登録されている。2015(平成27)年度から翌年度にかけて第4回保存工事が行われた。

原爆に耐えた、爆心地に最も近い「元安橋」 MAP __

毛利輝元が架橋したことに始まる「元安橋」。江戸時代には「西国街道(山陽道)」筋の橋となり、重要な役割を果たした。1926(大正15)年、鋼板桁の永久橋に架け替えられている。原爆投下時、爆心地から130mという最も近い距離に位置する橋であったが、爆風に耐え、落橋することはなかった。写真の奥に見えるのは「広島県立商品陳列所」。【画像は大正期~昭和戦前期】

1992(平成4)年に現在の橋が架橋された。先代の橋のデザインを踏襲し、被爆した親柱と中柱が利用されている。

写真は原爆投下後の「広島県産業奨励館」付近の様子。一瞬にして街が消し去られ、わずかに建物と橋を残すのみとなっている。当時は『75年は草木も生えぬ』とも言われたが、その後、広島は驚異的な早さで力強く復興を遂げた。【画像は終戦前後】


「軍都」から、恒久の平和を願う「平和記念都市」へ

昭和戦後期の「広島平和記念資料館」

写真は昭和戦後期の撮影で、中央が「広島平和記念資料館」、右は「広島平和記念館」、左は「広島市公会堂」。
【画像は昭和戦後期】
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現在の「広島平和記念資料館」

写真中央が現在の「広島平和記念資料館」。右は「広島平和記念館」を改築ののち、1994(平成6)年に開館した「広島平和記念資料館東館」、左端は「広島市公会堂」を改築ののち、1989(平成元)年に開館した「広島国際会議場」。

原爆投下から4年目にあたる1949(昭和24)年8月6日『広島平和記念都市建設法』が公布・施行された。これは、原爆により廃墟と化した広島の街を支援し、復興を後押しするものであった。第1条で「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」という理念を掲げ、広島における「平和記念都市」建設の動きが始まった。これに基づき同年9月30日には『広島平和記念都市建設綜合計画書(案)』が作成された。

この中の『土地利用配分計画』では「平和記念施設」をはじめとした8グループが決められ、旧軍用地の活用などが計画された。この計画の総事業費は276億円におよび、幹線道路の整備、港湾の整備、戦災復興事業が3本の柱となり、これらは現在の都市づくりの原型となった。

死没者の慰霊と平和を祈るための「平和記念施設」として「平和記念公園」の建設が進められることとなった。これは、爆心地に近い中島地区で、1946(昭和21)年に「戦災記念公園」として計画されていた「中島公園」を発展させて「平和記念公園」とするもので、1954(昭和29)年に完成した。設計を担当したのは、建築家の丹下健三氏。公園内には「広島平和記念資料館」や「原爆死亡者慰霊碑」も建設された。「平和記念公園」は「元安川」を隔てた対岸の「原爆ドーム」、その北側の「広島市中央公園」と隣接する立地となっており南側には東西を結ぶ「平和大通り」(100m道路)が開かれた。毎年8月6日には「平和記念式典」が開催され、原爆が投下された午前8時15分には、恒久の平和を祈り、黙祷が捧げられている。


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