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「軍都」の様相を呈する、広島の街

「明治維新」後、陸軍の「広島鎮台」が「広島城」に置かれ、その後「第五師団」となった。「日清戦争」時には、軍を指揮する「大本営」が東京から広島に移り、「軍都」の様相を呈していく。「宇品港」は、戦争における輸送拠点として活用された。


「日清戦争」時の「大本営」が「広島城」に置かれた MAP __(表御門) MAP __(本丸御殿跡)

「明治維新」後の1873(明治8)年、全国六鎮台の一つとして陸軍の「広島鎮台」が「広島城」に置かれ、1888(明治21)年に「第五師団」となった。「日清戦争」の最中である1894(明治27)年9月には、軍を指揮する「大本営」が、東京から前線に近い広島に移された。明治天皇も広島に滞在し、一時、広島は日本の首都機能を果たしていた。1894(明治27)年10月に開催された「第7回帝国議会」は「広島臨時仮議事堂」で開催されている。写真は「大本営」の看板が掲げられた「表御門」。【画像は明治中期】

写真は現在の「表御門」の様子。戦時中に原爆で焼失していたが、1991(平成3)年に復元された。

明治天皇が用いた玉座。天皇の滞在は1894(明治27)年9月から1895(明治28)年4月まで長期にわたった。【画像は昭和戦前期】

「大本営」があった「広島城」の「本丸御殿」跡。建物の基礎が残されており「明治二十七八年戦役廣島大本営」の石碑が建てられている。

「西練兵場」に建立された「日清戦争」の「戦捷記念碑」 MAP __

1894(明治27)年の「日清戦争」では、広島の「第五師団」は、名古屋の「第三師団」とともに「第一軍」に編成され、出征した。「第一軍」の戦死者を祀る碑として「西練兵場」に「第一軍戦死者記念碑」が建立され、一般には「日清戦争」の「戦捷(せんしょう)記念碑」として知られていた。巨大な砲弾を載せた「記念碑」は約20mに及ぶ巨大なモニュメントであり、広島名所の一つとなっていた。【画像は大正期】

広島の「戦捷記念碑」は、「太平洋戦争」中に金属供出、または原爆で失われたといわれ、現存していない。「日清戦争」の「第一軍」は名古屋の「第三師団」と広島の「第五師団」から成っていたため、名古屋にも同形の記念碑が建立され、こちらは現存している。「戦捷記念碑」があった「西練兵場」は戦後、商業地や公共施設に姿を変えた。現在、碑の跡地付近には「そごう 広島店」と「メルパルク広島」が建っている。

1889(明治22)年「宇品港」が開港、「日清戦争」では輸送拠点に MAP __

今から約800年前「太田川」河口付近に、年貢を運搬する船が集まるようになった。しかし、一帯は遠浅の海のため、大きな船は船着き場へ直接入ることはできず中継が必要だった。1880(明治13)年に「広島県令」となった千田貞暁氏は、1881(明治14)年にオランダ人技術者・ローウェンホルスト・ムルデル氏へ調査を依頼し、「宇品(うじな)島」との間に堤防を築き併せて干拓も行う築港計画を策定。漁場を失う漁民の猛反対もあったが、1889(明治22)年に「宇品港」が完成した。「日清戦争」では「宇品港」は朝鮮半島や中国大陸に向かう、兵士や物資の輸送の最前線となった。

写真は大正期の「宇品港」の桟橋。元は民営の桟橋であったが、1922(大正11)年に広島市が購入し「市営桟橋」となった。第37代横綱・安藝ノ海関は近くの食料品店が実家で、角界入り前の少年期(昭和初期)に家業を手伝い、「宇品港」界隈で重荷を運んでいたことで足腰が鍛えられたといわれる。【画像は大正期】

「宇品港」は1932(昭和7)年「広島港」に改称し、港湾区域は整備されていった。市内中心部とは広島電鉄の宇品線で結ばれている。写真は現在の「市営桟橋」。


「似島」に検疫所を設置、のちに俘虜収容所も MAP __

「似島桟橋」の様子

「似島桟橋」の様子。【画像は昭和戦前期】

「宇品港」の南に位置する「瀬戸内海」に浮かぶ「似島(にのしま)」は、江戸時代には、本土への荷物を中継する「荷の島」と呼ばれていた。「安芸小富士」という「富士山」に似た山(標高278m)があることから、現在の表記「似島」となったという。

「日清戦争」時の1895(明治28)年、島には「似島検疫所」(のちの「第一検疫所(似島検疫所第一消毒所)」)が設置された。これは海を隔てた戦地で蔓延していた伝染病への感染を水際で防止することが目的で、当時この施設は、世界最大級の規模を誇っていた。1904(明治37)年に「日露戦争」が勃発すると、設備の増強が求められ、1905(明治38)年に「第二検疫所」も設けられた。


日本で初めてバウムクーヘンを焼いたカール・ユーハイム氏

日本で初めてバウムクーヘンを焼いたカール・ユーハイム氏。
【画像は昭和戦前期頃】

「似島」には、「第一次世界大戦」下の1917(大正6)年、ドイツ人捕虜を収容する「似島俘虜収容所」も開設された。菓子職人カール・ユーハイム氏も日本に連行され、収容された一人であった。彼は、1919(大正8)年に「広島県商品陳列所」(現「原爆ドーム」)で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で、日本で初めてバウムクーヘンを製造・販売。1922(大正11)年には1号店となる「E.ユーハイム」を開き、製菓会社「ユーハイム」の礎となった。

「太平洋戦争」下でも「似島」での検疫は続けられていたが、戦局の悪化により帰還兵は減少。検疫所があったことから医薬品の蓄えがあり、原爆投下後には臨時救護野戦病院となった。現在も島内に遺構が散在しており、当時の様子を伝えている。


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