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公園の誕生、戦前の都市計画

1923(大正12)年の、旧『都市計画法』の適用を受け、全国24の主要都市とともに、広島市では大正末期から昭和戦前期にかけ、近代的な都市計画が進められた。ここでは、公園として整備が進められた「比治山」と「江波山」についても紹介する。


「比治山公園」に移築された「御便殿」 MAP __

「比治山(ひじやま)」は、標高70mほどの小高い丘で、毛利元就はこの地に城を築城することを考えていたともいわれる。1872(明治5)年には、「鎮台」が「広島城」へ開設されたことに併せ、「比治山」の南側に、戦死した鎮台将兵を埋葬する「比治山陸軍墓地」が建設された。

1903(明治36)年、広島市は市内初の公園として「比治山公園」を開設した。公園内の北側には1909(明治42)年に「御便殿」(写真の右奥の建物)が移築された。「御便殿」は「日清戦争」で「広島城」に「大本営」が置かれた際、明治天皇の行在所(休憩所)として「西練兵場」内に建設された建物で、戦前期には聖蹟として多くの人々が訪れた。【画像は大正期】

「御便殿」の建物は原爆により焼失した。現在、跡地一帯は「御便殿広場」となっており、建物の跡地には最上壽之氏の彫刻「テク・テク・テク・テク」(写真中央)が設置されている。1980(昭和55)年に「比治山芸術公園基本計画」が策定され、1983(昭和58)年に「比治山公園青空図書館」(1997(平成9)年より「広島市まんが図書館」)、1989(平成元)年に「広島市現代美術館」が開館している。「広島市博物館」も計画されたが、予定地にある「放射線影響研究所」の移転の遅れや財政問題などから1998(平成10)年度に事業は凍結された。2017(平成29)年には新たに「比治山公園『平和の丘』基本計画」が策定され、各施設の再整備や「放射線影響研究所」の移転(2025年度予定)を見据えた取組みなどが進められている。

近代的な都市計画がスタート

1923(大正12)年、全国24の主要都市とともに、広島市に「(旧)都市計画法」が適用され、1927(昭和2)年には「地域指定(用途地域)」が定められた。地図は『広島都市計画地域指定参考図』で、赤い網掛けの部分が商業地域、青い網掛けの部分が工業地域として指定されている。

「地域指定」に続き、1928(昭和3)年に「都市計画道路」、1941(昭和16)年には公園についても計画が定められた。しかし、1945(昭和20)年8月6日の原爆投下で、広島は一瞬にして焦土と化し、都市基盤も壊滅的な被害を受けた。

終戦後、すぐに復興のための都市計画の検討が進められ、終戦翌年の1946(昭和21)年には「広島復興都市計画」が決定となり、広島の都市づくりが再び始められた。【図は1927(昭和2)年】

原爆の被爆建物でもある「広島地方気象台」 MAP __

1879(明治12)年、「広島県庁」内に開設された「広島県立広島測候所」は、1892(明治25)年に広島市国泰寺村(現・中区千田町)に移転し、その後、1935(昭和10)年に「江波山(えばやま)」へ移転した。1939(昭和14)年、国に移管されて「中央気象台広島測候所」となり、1943(昭和18)年に「広島地方気象台」となった。写真は竣工当時の様子。【画像は昭和戦前期】

「広島地方気象台」は1987(昭和62)年に、現在の中区上八丁堀に移転した。残された建物を活用し、1992(平成4)年「広島市江波山気象館」が開館、1998(平成10)年に別館(写真左)が増築された。2000(平成12)年には「旧広島地方気象台」として広島市指定重要有形文化財となった。「広島市江波山気象館」は天気をテーマとする博物館であると同時に、原爆の被爆建物としての歴史もあり、爆風により曲がった窓枠や壁に刺さったガラス片など、傷跡の一部も保存されている。また、原爆投下時の記録として、気象台員の「当番日誌」や「カンベル日照計の記録紙(複製)」や、翌9月に気象台が独自に行った『廣島原子爆弾被害調査報告』など、当時の状況を伝える貴重な資料も展示されている。

「広島湾」に浮かぶ島だった「江波山」

江戸時代まで「江波山」は「広島湾」に浮かぶ島「江波島」であった。江波一帯は、城下町・広島の外港で漁業も盛んだった。江戸後期の1811(文化8)年、「江波島」の北岸から北に「丸子新開」が干拓され、江戸前期に干拓されていた「舟入沖新開」と水路を挟み架橋されたため、広島の街とほぼ陸続きとなり、さらに明治初期、その水路も埋め立てられ完全に陸続きとなった。

写真は「衣羽(えば)神社」境内に植えられている御神木「風知りの松」。『葉が閉じていると嵐が来る』と伝わり、漁へ出ることを用心したという。【画像は明治後期】

「風知りの松」(写真中央)は2006(平成18)年に広島市指定保存樹となった。現地には案内板が設置されている。
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「江波山」一帯は1903(明治36)年、「江波公園」(現「江波山公園」)として「比治山公園」とともに広島市初の公園となった。写真は大正初期の西端部分の様子で、このあたりは多くの鵜が飛来したことから「鵜の崎」と呼ばれていた。戦後「江波山」の南側は埋め立てられ、現在は住宅地や工業地となっている。
MAP __(江波山公園)【画像は大正初期】


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