現在も地名に残る「八丁堀」は「広島城」東側の外堀で、このあたりには「京橋」、さらには京都方面へ向かう「広島城」の御門「京口門」が置かれていた。「八丁堀」の地名は、江戸時代、城内にあった長さ八丁(約900m)の中級武士の屋敷地「八丁馬場」に通じていたことからといわれるが、堀の長さ自体が八丁であったためという説もある。明治末期、「広島電気軌道」(現「広島電鉄」)がこのあたりに電車の敷設を計画すると、市会から道路を拡幅して路面電車として建設する案が出され、これに伴い「八丁堀」は埋め立てられることになった。
広島と各地を結ぶ主要道路である「西国街道(山陽道)」と「広島城」に挟まれた一帯は、江戸時代から賑わいを見せ、広島の街を代表する商業地となった。城の東側にあった「八丁堀」や南側の「紙屋町」には路面電車が往来し、大いに発展した。