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中国地方の主要都市として

「明治維新」後、広島は中国地方の中心地として更に発展した。本州西部を結ぶ山陽鉄道の「広島駅」が開業し、ここから県下や山陰地方への鉄道ルートが開かれた。一方で「学都」としても知られており「広島高等師範学校」が置かれるなど、西日本における教育の中心地でもあった。


戦前の「広島県庁」は、ルネサンス様式の木造2階建て MAP __

1871(明治4)年、広島県が発足、庁舎が「広島城」の本丸に置かれた。その後、仮庁舎を転々としていたが、1878(明治11)年に、現在の広島市中区加古町(かこまち)に、ルネサンス様式の木造2階建ての新庁舎が完成した。県庁の周辺には、1877(明治10)年に「公立広島病院」、1905(明治38)年に「日本銀行広島出張所」、1910(明治43)年に「広島県会議事堂」が建設されるなど、都市機能の中枢を担うエリアとなっていった。【画像は昭和戦前期】

県庁舎は戦時中に原爆で焼失、その後、仮庁舎で転々としたのち、1956(昭和31)年、基町の「西練兵場」跡地に新庁舎が完成した。写真はかつて県庁舎のあった一帯。跡地は1949(昭和24)年から「広島市中央卸売市場」となっていたが、1981(昭和56)年に西区草津港へ移転。1985(昭和60)年に「広島厚生年金会館」が開館、現在は「広島市文化交流会館」(写真右)となっている。左は複合文化施設「アステールプラザ」。

1894(明治27)年、山陽鉄道延伸により「広島駅」が誕生 MAP __

神戸から西へ向かって延伸していた山陽鉄道は、「日清戦争」が勃発する直前の1894(明治27)年6月に「広島駅」まで開通した。駅から「宇品港」への陸軍専用線(後の国鉄宇品線)の建設が進められ、同年8月に開通。着工から2週間強での竣工となる突貫工事であった。山陽鉄道は1906(明治39)年に国有化(現・JR山陽本線)、1922(大正11)年にはコンクリート造の新駅舎が誕生している。【画像は明治後期】

1965(昭和40)年には民衆駅として駅ビルが誕生。1975(昭和50)年には国鉄(現・JR)の山陽新幹線が全線開通となった。

日本で二番目に誕生した高等師範学校「広島高師」 MAP __

『教育の西の総本山』と呼ばれた「広島高等師範学校」は「東京高等師範学校」(現「筑波大学」)に続く、日本で二番目に設置された高等師範学校。1902(明治35)年、広島市国泰寺村(現・中区東千田町)に開校した。1905(明治38)年には附属中学校・小学校も設けられている。1929(昭和4)年に「広島文理科大学」が創立されるとその附置校となった。その後、1949(昭和24)年に誕生した「広島大学」に包括されることとなる。【画像は大正期】

東千田町の校地は「広島大学 東千田キャンパス」に受け継がれている。ここには「放送大学広島学習センター」も開設されている。

「西練兵場」を会場に「昭和産業博覧会」が開催 MAP __

1929(昭和4)年、広島市が主催する「昭和産業博覧会」が「西練兵場」を第一会場として、市内3つの会場で開催された。当時の世相・社会情勢を反映して「満蒙館」「樺太参考館」などのパビリオンが建ち並び、珍しい物産などが展示・販売されていた。写真の「子供の国」(写真では「小供の国」と表記)は、第一会場の西側に設置され、飛行塔、サークリングなどの大型遊具が子どもたちの人気を集めた。【画像は昭和戦前期】

「子供の国」の会場は「太田川」に沿った立地で、現在の「広島商工会議所」(写真左)がある一帯にあった。正面奥の建物は「広島県立総合体育館」の「広島グリーンアリーナ」。


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