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軍需施設と工場の進出

明治時代に陸軍の「禁野(きんや)火薬庫」が置かれていた枚方周辺には、昭和期に入り「大阪工廠」の「枚方製造所」と「東京第二陸軍造兵廠香里製造所」が設けられた。一方、民間の企業も枚方に進出。「日本メリヤス」や「蝶矢シャツ」などが工場を開いた。


枚方にあった陸軍の「禁野火薬庫」と「枚方製造所」

1896(明治29)年、牧野村の渚・禁野(きんや)に陸軍の「禁野火薬庫」が設けられた。「宇治火薬製造所」と「大阪砲兵工廠」の間に位置し、「宇治川」「淀川」の舟運が利用できること、また、人家が少ない丘陵地であることからこの場所が選定された。爆発事故の際、誘爆を防ぎ被害を低減させるため、火薬庫ごとを区分けする土塁が築かれていたが、2度の大爆発事故を起こし、周辺に大きな被害を与えた。写真は昭和戦前期の空中写真で、中央付近が「禁野火薬庫」。各建物(火薬庫)が土塁で区切られている様子がわかる。

現在、「禁野火薬庫」の跡地は「枚方合同宿舎」などになっている。
MAP __【画像は1936(昭和11)年~1942(昭和17)年頃】

終戦後の旧「枚方製造所」の空撮

戦時体制下に入った1937(昭和12)年、火薬庫に隣接して「大阪陸軍造兵廠 枚方製造所」が新設され、1938(昭和13)年から生産を開始、砲弾や爆弾製造の一大拠点となった。写真は終戦後の旧「枚方製造所」の空撮。1952(昭和27)年、跡地の大部分が「小松製作所」へ払い下げられ「小松製作所 大阪工場」などになった。

1998(平成10)年、「小松製作所 大阪工場」の一部敷地は「関西外国語大学」へ売却され、2002(平成14)年に「関西外国語大学 中宮キャンパス」が開設された。
MAP __【画像は1945(昭和20)年~1952(昭和27)年】

写真は「車塚公園」に設置されている、旧「枚方製造所」の建物の部材を使用した「平和モニュメント」。この場所は旧「枚方製造所」の敷地の北東端付近にあたり、かつて枚方が「兵器のまち」であったことを伝えている。
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陸軍の兵器製造の拠点となった「香里製造所」

「香里製造所」

「日中戦争」が激化した1939(昭和14)年、茄子作地区の丘陵地に「宇治火薬製造所 香里工場」が開設された。1942(昭和17)年「東京第二陸軍造兵廠 香里製造所」として独立、140haの敷地内では一時は約5,000人の工員が働き、主に火薬を砲弾や爆弾に詰めて完成品にする工程が行われていた。写真は、現在の「UR賃貸住宅 香里ヶ丘東 E12号棟」付近から西方向を撮影しており、写真左に見える交差点が、現在の「藤田川(とうだがわ)交差点」となる。
MAP __(撮影地点)【画像年代は不明】

「香里製造所」の跡地では、1956(昭和31)年から「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)による「香里団地」の造成が始まった。
MAP __(撮影地点)

「日本メリヤス」の「枚方工場」は「倉敷紡績」に MAP __

大正期の「倉敷紡績 枚方工場」

枚方町では「日本メリヤス」の工場誘致活動を行い、1920(大正9)年に「枚方工場」が操業を開始した。しかし、間もなく不況によって1922(大正11)年に工場閉鎖、1924(大正13)年に「倉敷紡績」が買収した。「倉敷紡績」では改修・改善が行われたが、予定したほどの成果は得られなかった。写真は大正期、「万年寺山」からの撮影で、手前が旧「枚方宿」、中央奥が「倉敷紡績 枚方工場」。【画像は大正期】

「倉敷紡績」の「枚方工場」は1996(平成8)年まで操業を続けた。跡地は「関西医科大学」(写真中央)、「枚方市総合文化芸術センター」(写真右)などになっている。

「蝶矢シャツ」の「枚方工場」が誕生 MAP __

「蝶矢シャツ 枚方工場」

1918(大正7)年、「潮谷商会(のちの「蝶矢シャツ」)」が枚方町に工場を建設、1920(大正9)年に竣工した。敷地4,000坪、建坪1,000坪の工場は、従業員約200人を抱え、ワイシャツ・カラー・肌着類を製造していた。当時は最新設備を誇る工場であった。写真は1950~1960年代の工場内の様子。【画像は1950~1960年代】

現在、跡地はマンションとなっている。「蝶矢シャツ」のブランドは「山喜株式会社」に受け継がれている。


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