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「八王子織物」と製糸業の発展

八王子の織物の歴史は、万葉の時代まで遡るといわれ、江戸時代には絹織物・生糸などの品々を取引する市が立ち「桑都」と呼ばれるほど活況を呈した。明治期以降も染色のための学校や試験場の設立など品質向上のための努力もあり、絹織物・生糸を中心とする商工業の街として発展した。


織染の講習所・学校と試験場の設立

明治10年代、輸入された粗悪な化学染料が多用され「八王子織物」の品質が低下、評判を落としたことから、地元の仲買商らが1886(明治19)年に「八王子織物組合」を結成、翌年、染色をはじめとする技術向上と品質改善のため「八王子織物染色講習所」を新町に開設。1903(明治36)年に東京府に移管され「東京府立織染(しょくせん)学校」となった。 MAP __【図は1887(明治20)年】

「東京府立織染学校」は、町民からの寄付と「鉄道省」からの初代「八王子駅」跡地の無償譲与を受け、1909(明治42)年に明神町に移転した。写真は明治後期から大正期、敷地の南側からの撮影。1939(昭和14)年に千人町に移転し、現在は「東京都立八王子桑志高等学校」となり伝統を引き継いでいる。 MAP __(東京府立織染学校跡) MAP __(東京都立八王子桑志高等学校)【画像は明治後期】

1922(大正11)年、「八王子織物同業組合」は「八王子織物」の発展のため、染色の改善やデザインの研究などを行う工業試験場の設置を東京府に請願。1927(昭和2)年、「東京府立染織試験場」が設立され、翌年、「東京府立織染学校」の南東側の隣接地に建物が落成、開場した。 MAP __【画像は1935(昭和10)年頃】

1944(昭和19)年に「東京都立繊維工業試験場」へ改称、1960(昭和35)年に新たな建物が落成。その後、2000(平成12)年に「東京都立産業技術研究所」(2006(平成18)年から「東京都立産業技術研究センター」)に統合され、その「八王子支所」となり、2010(平成22)年、昭島市の「産業サポートスクエア・TAMA」へ移転した。【画像は1966(昭和41)年】

跡地では、2018(平成30)年度から、東京都による産業交流拠点の建設が進められ、2022(令和4)年10月に「東京たま未来メッセ(東京都立多摩産業交流センター)」が開業となる。

「八王子織物同業組合」の設立

1899(明治32)年、組合員約3,900人、機屋をはじめ買継商、撚糸といった関連業者も含まれ、八王子市場に集まる周辺49町村の織物生産地を抱合する大組合、「八王子織物同業組合」が設立され、その後の「八王子織物」の発展の原動力となった。1920年(大正9)年に鉄筋コンクリート3階建ての組合事務所が完成したが、1923年(大正12)年の「関東大震災」で被災、1926(大正15)年に改築された。写真は改築後の撮影で、右側に「瀧兵商店八王子視察團歓迎」の文字が見える。場所は八日町(現「ビュータワー八王子」付近)にあった。 MAP __【画像は昭和戦前期】

「八王子織物同業組合」は、1940(昭和15)年に「同業組合法」廃止により解散、「財団法人八王子織物奨励館」(現「一般財団法人八王子繊維貿易館」)が同業組合の全資産をもって組織された。戦時中の統制組合時代を経て、戦後の1950(昭和25)年、「八王子織物協同組合」となり八幡町へ移転。1958(昭和33)年に「八王子織物工業組合」となり現在に至っている。写真は1954(昭和29)年に完成した「八王子繊維貿易館」で、1966(昭和41)年の撮影。【画像は1966(昭和41)年】

現在も「八王子織物工業組合」は「八王子繊維貿易館」内にある。 MAP __

鑓水と「絹の道」

江戸後期、八王子と神奈川の港を結ぶ街道沿いの鑓水(やりみず)村(現・八王子市鑓水)は生糸の取引で「鑓水商人」と呼ばれるほど繁栄、三井家分家からの嫁入りもあったという。幕末期の横浜開港後、絶頂期を迎えるが、明治の中頃に衰退した。写真は幕末期の鑓水村で、中央左付近の石垣のある建物が代表的な「鑓水商人」の一人、八木下要右衛門の屋敷と思われる。写真は幕末に来日したイギリス人写真家、F.ベアトの撮影。【画像は幕末期】

現在も屋敷の石垣は残り、跡地は「絹の道資料館」となっている。写真は現在の様子。 MAP __ MAP __(絹の道資料館)

かつて生糸が運ばれた、八王子と横浜を結ぶ道は「浜街道」と呼ばれていた。写真は幕末期の鑓水村で中央に延びる道が「浜街道」と思われる。写真はF.ベアトの撮影。【画像は幕末期】

同地点付近の現在の様子。 MAP __(明治期の浜街道)

戦後、地元の郷土史家の橋本義夫がこの「浜街道」を「絹の道」と呼ぶことを提唱、1957(昭和32)年に道沿いの「道了堂」の石段前に『絹の道』の碑(写真)を建立した。現在は、「道了堂」はなくなり「大塚山公園」として整備されている。「絹の道」は八王子市指定史跡となっており、往時の面影を感じさせる区間も残る。 MAP __

国内最大級の器械製糸場だった「萩原製糸場」

「萩原製糸場」は、1877(明治10)年に萩原彦七が中野村(現・東京都八王子市中野上町)で創業。八王子周辺では最初期の器械製糸場であった。横浜の外国商館の資金援助で急成長を遂げたと推察されており、1893(明治26)年調査の『全国製糸工場調査表』では、旧官営の「富岡製糸所」を上回る、国内有数の規模の器械製糸場(340釡)となっている。しかし、1900(明治33)年の生糸恐慌により経営不振となり、翌年「片倉組」(後の「片倉製糸紡績」、現「片倉工業」)に買収された。写真は1935(昭和10)年頃の撮影と思われる。1943(昭和18)年、「片倉工業」の系列で消防車などを製造する「日本機械工業」の工場も併設された。 MAP __【画像は昭和戦前期】

現在は「日本機械工業」の本社工場・本社営業部がある。「日本機械工業」は国内2位のシェアを誇る消防車メーカー。敷地内には製糸場時代からの建物も多く残る。

写真は1937(昭和12)年に建てられた蚕室で、寮として利用されてきた。

1900(明治33)年に「浅川」に架けられた「秋川街道」の橋は、八王子中心部と「萩原製糸場」を結ぶ橋でもあり、建設費の多くを寄付した萩原彦七に因んで「萩原橋」と名付けられたが、前述の通り、工場は翌年買収された。橋は1903(明治36)年に東京府に献納され、1923(大正12)年と1931(昭和6)年に架け替えられている。写真は1932(昭和7)年頃の撮影。【画像は昭和戦前期】

現在の橋は1990(平成2)年に架け替えられたもので、橋の欄干は織物に関するデザインとなっている。橋の南側には1907(明治40)年建立の架橋の記念碑が残る。MAP __


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