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古代九州の中心 大宰府と外交を担った福岡・博多



九州を治めた「大宰府政庁」跡 菅原道真ゆかりの「天満宮」

「太宰府天満宮」の参道にあった金鳥居

「太宰府天満宮」の参道にあった金鳥居【画像は大正期】

「大宰府」は、奈良・平安時代に朝廷が各地に置いた行政機関であったが、九州の「大宰府」だけが残り、九州地方の行政、大陸との外交を担うこととなった。「大宰府」の長官は、大宰の「帥」とよばれ、実際には長官代理の「権帥」が現地で支配権を握ることになった。また、この「権帥(大宰員外帥)」は大臣経験者などの左遷ポストともなっていた。藤原氏と権力を争った右大臣、菅原道真もその一人である。

菅原道真は「大宰員外帥」となった4年後の903(延喜3)年、「大宰府」で死去した。その後、「安楽寺」に廟が設けられ、919(延喜19)年には社殿が建てられて、「安楽寺天満宮」となった。これが明治期に「太宰府神社」となり、1947(昭和22)年に「太宰府天満宮」と名称を改めた。現在は京都の「北野天満宮」とともに全国天満宮の総本宮(社)とされている。

現在、「大宰府政庁」跡は、福岡市の南の太宰府市にあり、付近には「観世音寺」や「水城」など関連施設の遺構なども残る。また、名称は駅名や地名となって受け継がれ、西鉄天神大牟田線に「都府楼前駅」、JR線(鹿児島本線)に「水城駅」、「都府楼南駅」が存在する。西鉄太宰府線の終点となる「太宰府駅」は、「太宰府天満宮」の最寄り駅で、「大宰府政庁跡」や「太宰府市役所」とは少し離れた東側にある。


古地図に見る太宰府と福岡・博多

これは、「元寇」に関係する各地を示した1902(明治35)年の地図の一部。福岡と博多の間の線にあたるのが「那珂川」で、右下隅に「太宰府」の文字が見える。「大宰府」が九州を治めていた奈良・平安時代には、福岡にあった「鴻臚館」と「大宰府」は2本の古代官道「大宰府官道」により結ばれていたといわれている。「鴻臚館」は、1987(昭和62)年に「平和台野球場」の改修工事の際に「福岡城」跡から遺構が発見され、位置が特定された。(この地図中では、「鴻臚館」は実際の位置とは異なり、内陸寄りに示されている。)



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※本ページでは、古代律令時代の役所、その遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記する。



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