このまちアーカイブス INDEX

アジアに開く玄関口 発展する港と空港

「遣唐使」や「博多商人」が海外へ向けて出港した「博多大津」(現「博多港」)は、現在に至るまで、日本の窓口としてその役割を果たしている。また、空の交通を担う飛行場も、初期の水上飛行機の拠点・名島から雁ノ巣、席田(むしろだ)の軍用飛行場を経て、規模を拡大しながら国際的な空港に成長した。


『続日本紀』に登場する「博多大津」の地名

「博多」の地名が初めて文献に登場するのは、平安時代初期の797(延暦16)年に完成した『続日本紀(しょくにほんぎ)』。その中の奈良時代中期・759(天平宝字3)年の記事に「博多大津」という地名が登場する。「博多大津」とは「博多港」のことで、九州の政治・外交・軍事を担う役所「大宰府」の外港として重要な役割を果たしていたと考えられている。写真は1936(昭和11)年に開催された「博多築港記念大博覧会」の「郷土史館」内での展示で、「鴻臚館」を出た「遣唐使」の一行が「遣唐船」に乗り込もうとしている風景が再現されている。【画像は1936(昭和11)年】

かつては港町・博多の中心地だった「那珂川」の河口 MAP __

「那津(なのつ)」は「那珂川」の河口の港のことで、奈良時代の歴史書『日本書紀』にも登場する古い地名。「那珂川」の河口付近は、近代的な「博多港」が開かれる前には、港町・博多の中心地だった。写真は1907(明治40)年頃のもので、大小の船が石造りの岸壁に繋がれた様子が見える。左奥に見える建物は、1898(明治31)年に設立された「福岡県農工銀行」で、1921(大正10)年に「日本勧業銀行」に吸収合併されその「福岡支店」となったのち、1924(大正13)年に新たに営業所を建設し移転している。【画像は1907(明治40)年頃】

写真は「那の津大橋」の北側から望む「那珂川」。「福岡県農工銀行」があった場所は、中央奥のビルの先、現在の「福岡税務署」付近と思われる。中央付近の大きな建物は1963(昭和38)年開館の「福岡市民会館」で、2025年、「須崎公園」に建設中の「福岡市民ホール」の開館に伴い閉館となる。

「博多港」は1899(明治32)年に開港指定され国際貿易港となった。近年は、日本の対アジア拠点港としての存在感を増しているほか、「日韓定期航路」や「外航クルーズ客船」の寄港など、人流の拠点としても重要な役割を果たしている。
MAP __(福岡税務署)

「福岡藩」の整備に始まる「博多漁港」 MAP __

「博多漁港」は江戸時代に「福岡藩」が整備したことに始まる。昭和初期には底曳網漁業の基地としての整備も進められた。写真は昭和中期、「西公園」から望む「博多漁港」。1955(昭和30)年には「福岡市中央卸売市場鮮魚市場」が開場した。【画像は昭和中期】

現在の「博多漁港」は「福岡市中央卸売市場鮮魚市場」を中心に、沖合漁業や沿岸漁業の水揚げのほか、九州各地やアジアなどからの水産物の集積地としての役割も担い、福岡市内をはじめ、全国各地に新鮮な魚介類を届けている。

1930(昭和5)年に開設された「名島水上飛行場」 MAP __

1930(昭和5)年に開設された「名島水上飛行場」は、アメリカの飛行家・リンドバーグ夫妻が来訪したことでも知られる。大阪、上海との間に定期航路があり、飛行機を吊り上げる巨大なクレーンが設置されていた。【画像は昭和前期】

「名島水上飛行場」は1934(昭和9)年に閉鎖されたといわれる。跡地の一画には「名島水上飛行場跡」の碑(写真右下)が立てられており、水上飛行機が発着していた海は埋め立てられ住宅地などになっている。

「海の中道」に建設された「福岡第一飛行場」 MAP __

「名島水上飛行場」は水上飛行場であったため、陸上の飛行場の必要性から、1936(昭和11)年、「海の中道」の雁ノ巣付近に「福岡第一飛行場」が建設された。中国・朝鮮・台湾・東南アジア方面への航路が設けられ、国内における最大規模の民間国際空港となった。その後、戦時体制下に入ると滑走路などが拡張され軍用にも使用されるようになった。【画像は昭和前期】

戦後は米軍に接収され、「ブレディ飛行場」として使用されたのち、1972(昭和47)年に返還された。現在、跡地は「雁の巣レクリエーションセンター」「福岡航空交通管制部」(写真右奥)などになっている。写真は「雁の巣レクリエーションセンター」内の駐車場で、かつてはこのあたりに滑走路が通っていた。2020(令和2)年、「福岡航空交通管制部」の北側に「福岡空港 奈多地区(奈多ヘリポート)」が開港、多くのヘリコプターが発着するようになった。

陸軍の「席田飛行場」を前身とする「福岡空港」 MAP __

「太平洋戦争」中の1944(昭和19)年、陸軍は「席田(むしろだ)飛行場」を着工し、翌年に滑走路が完成するが、間もなく終戦を迎えた。戦後は米軍の管理下に置かれ「板付(いたづけ)飛行場」となった。1951(昭和26)年には、戦後初の民間航空路線として、「日本航空」の福岡~大阪~東京路線が開設された。1972(昭和47)年に日本の管理下に移され「福岡空港」となった。写真は昭和中期の様子で、右奥の建物が当時の旅客ターミナル。
MAP __【画像は昭和中期】

「福岡空港」は「博多駅」まで地下鉄で約5分で、市街地に近く高い利便性を誇る一方、騒音や福岡都心部での超高層ビルの建設の制限といった問題がある。離着陸が多い上に、現在は滑走路が1本しかないため、滑走路あたりの離着陸回数は日本で最多となっており、旅客機の離陸待ちの渋滞が発生することもある。平均約1分半に1回離着陸が見られるため、展望デッキを訪れる人も多い。現在、第2滑走路の整備が進められており、2025年に運用が開始される予定となっている。写真は現在の「福岡空港」で、古写真にあるかつての旅客ターミナルは、ANA機の奥となる12番ゲート付近にあった。


次のページ 街並み整備と開発


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る