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「京王電車」沿線地域の産業の発展

鉄道の開通、電燈・電気の供給は、沿線の各種産業の発展にも大きく貢献した。沿線には広大な土地が拡がっていたことから、大規模な工場も多数立地するように。戦時中は「東京調布飛行場」を中心に軍需に関わる工場や研究所も作られた。戦後は、首都圏の人口増大に伴い、食品工場などの消費地立地型の工業も盛んになった。


「三井牧場」は団地・マンションに MAP __

1918(大正7)年、「三井合名会社」は三井家の自家用牛乳生産のため、東京府荏原郡松沢村(現・東京都世田谷区桜上水)に「三井牧場」を開設した。10万㎡の牧場に、ジャージー種の乳牛10頭を英国から輸入して飼育、品質の高い牛乳で有名となり、三井家の誇りの一つとなっていたという。1941(昭和16)年から「三井不動産」の経営となり、戦後に乳牛はホルスタイン種に改められ、1948(昭和23)年からは「三井牛乳」として一般にも販売されるようになった。最盛期には12万ℓ/年が生産されたが、1962(昭和37)年に「三井農林乳業」が設立され府中市に工場を新設、世田谷区の「三井牧場」は閉鎖となった。写真は閉鎖前年の撮影。現在の世田谷区域内では昭和初期から酪農が盛んとなり、戦後さらに発展するが、周辺の宅地化などに伴い昭和40年代に減少、1985(昭和60)年、区内最後の牧場であった「四谷軒牧場」が廃業している。【画像は1961(昭和36)年】

「三井牧場」の跡地には、「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)により総戸数404戸、全戸分譲の「桜上水団地」が建設され、1965(昭和40)年に入居開始となった。【画像は昭和後期】

「桜上水団地」は2015(平成27)年に建て替えが完了し、世田谷区内で最大規模の敷地面積を誇るマンション「桜上水ガーデンズ」となった。

帝都防空のため使われた「東京調布飛行場」 MAP __

国は「東京都市計画」において、『航空界の趨勢並防空上の見地より帝都の周囲には更に飛行場増設』が急務であるとして、北多摩郡調布町、三鷹村、多磨村地内(現・調布市、三鷹市、府中市)の約53万坪に飛行場計画を策定、1939(昭和14)年度より東京府(現・東京都)が建設を進めた。図は1939(昭和14)年に作成された計画図。1941(昭和16)年、全長1,000mの南北方向、700mの東西方向の滑走路を備えた「東京調布飛行場」が開設され、まもなく陸軍が使用することになり、同年「太平洋戦争」が開戦、帝都防空の拠点となった。配置された部隊の中でも特に有名な「飛行第244戦隊」は、1941(昭和16)年7月に「飛行第144戦隊」として編成(同年11月改称)、皇居・帝都防空を任務としており「近衛飛行隊」を自称した。【図は昭和戦中期】

戦争末期の1944(昭和19)年11月以降、米軍の「B-29爆撃機」による東京への空襲が始まると、撃墜や体当たり攻撃(「震天制空隊」と呼ばれた)で戦果を挙げることもあり、これを戦意高揚のために新聞が盛んに取り上げたことで有名になった。写真は戦時中の「東京調布飛行場」の様子。詳細な撮影時期は不明であるが、一面に雪が積もっていることから、戦時中の冬期の撮影と考えられる。

終戦後の1945(昭和20)年9月、米軍により接収、飛行場として使用されたほか、西側の一部は「調布水耕農場」として利用された。1964(昭和39)年の「東京オリンピック」開催のため、渋谷区代々木にあった米軍住宅「ワシントンハイツ」が返還された際、代替施設として「調布水耕農場」の跡地に「関東村」が建設された。1973(昭和48)年に飛行場地区、翌年「関東村」が全面返還となり、1979(昭和54)年以降、新島、大島などへ不定期便が運航開始、1992(平成4)年、国から東京都へ移管され、2001(平成13)年に正式な飛行場(コミューター空港)として「東京都調布飛行場」が開港した。その他の広大な跡地は、「武蔵野の森公園」、「味の素スタジアム」、スポーツエリア、「東京外国語大学」、「警察大学校」、福祉施設、病院などに活用されている。【画像は昭和戦中期】

「大沢グラウンド通り」沿いには旧飛行場の門柱が保存されている。門柱の右に見える堀は飛行場建設時に作られた排水溝で、「野川」に排水するように作られている。
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「武蔵野の森公園」に保存されている有蓋掩体壕(ゆうがいえんたいごう)。「太平洋戦争」末期に空襲から戦闘機を隠しておくために作られたコンクリート製屋根付の格納庫で、飛行場周辺に計30基作られたが、現存するのは4基のみとなっている。
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賑わう「調布銀座」 MAP __

調布駅」は「京王電車」開通当初の1913(大正2)年、現在の位置より200mほど西側に開設されていた。1951(昭和26)年、駅前の商店が集まり「調布銀座商栄会」が結成された。1953(昭和28)年に「京王多摩川駅」へ向かう支線のカーブを緩くするため、「調布駅」は東側の現在地へ移転、「調布銀座」は駅前から少し外れることになるが、その後も賑わう商店街として発展。昭和30年代には、商店街の「旧甲州街道」側の入口角に映画館「調布銀映」もあった。【画像は1965(昭和40)年頃】

近年「調布銀座」では、老舗の閉店がある一方で、居酒屋、カフェ、花店など、若い世代の店主による店舗やチェーン店がオープンし、定期的なイベントも開催され、新たな賑わいを見せている。


沿線の産業発展の歴史

「国立中央航空研究所」(画像は昭和初期)

「国立中央航空研究所」【画像は昭和初期】
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古来より荒野であった「武蔵野台地」は、江戸時代以降積極的に開墾され、明治中期頃には養蚕や、茶・野菜・ブドウ栽培などの商品作物の栽培も行われるようになった。

「多摩川」では、江戸時代から上流の木材を筏に組んで運んだ。多摩川原には二軒の筏宿があり、近年まで残っていた「筏の松」に筏をつないだという。河口から歩いて戻る道は、「筏道」と呼ばれ、調布を通る「品川道」もその一つであった。幕末から明治30年代にかけて最盛期を迎えるが、陸上輸送の発達で大正時代末頃に衰退した。

「深大寺」周辺では、用水や湧水を利用した水車を動力とする製粉業や製糸業も見られた。1900(明治33)年に「調布銀行」が設立され、地域の経済を支えたほか、翌々年には鮎漁を中心とする漁師による漁業組合の誕生など産業の近代化も進んだ。

「関東大震災」後は、1927(昭和2)年に化粧品の「久保政吉商店」(現「ウテナ」)が現・世田谷区南烏山に、翌々年「丸源製鋸所」が国領、1932(昭和7)年「日本針布(しんぷ)」が柴崎、「和光堂 東京工場」が仙川と、多くの工場が進出した。鮎漁業は観光での遊漁者の増加により、昭和初期頃に衰退している。

戦時色が強くなった1939(昭和14)年、陸軍の小銃を製造する「東京重機製造工業組合工場」(現「JUKI」)が国領に誕生。同年、「東京調布飛行場」が着工、「国立中央航空研究所」(跡地は「調布航空宇宙センター」)設置、翌々年には「中島飛行機三鷹研究所」(跡地は「国際基督教大学」)も設置された。周辺の工場においても、軍需品の生産が行われるようになり、「日本針布」は「風船爆弾」の製造にも関わった。

戦後は食品工場の進出も目立つ。1945(昭和20)年10月、「東京重機工業」は「ジューキパン」の製造を開始。1951(昭和26)年「食品工業 東京工場」(のちの「キユーピー仙川工場」、現「仙川キユーポート」)、翌年「明治乳業 烏山工場」(現「明治世田谷ビル」)、1956(昭和31)年「榮太樓總本鋪 調布工場」(2013(平成25)年八王子市へ移転)、1970(昭和45)年「コクカ飲料」(現「ホッピービバレッジ」)など多くの工場が進出した。

「千歳烏山駅」「調布駅」などの駅前は、電車開通以降、商業地としても発展してきた。近年、「仙川駅」周辺には新しい商業施設が続々と誕生、昔からの商店街とともに活気あるショッピングタウンとなった。


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