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「京王電軌」による沿線の開発

「京王電軌」は1910(明治43)年の設立。その趣意書には「甲州街道」沿いにおける近代的な鉄道の必要性が謳われていたほか、「多摩川」の砂利採掘・運搬、「多摩川畔」の観光地開発、沿線の電燈供給も記されていた。1913(大正2)年に「笹塚駅」~「調布駅」間が開通、1915(大正4)年には「新宿追分駅」(現・新宿区新宿三丁目付近)まで延伸、都心に乗り入れたこともあり、沿線は大きく発展を始めた。


初代の「調布駅」 MAP __(初代) MAP __(二代目) MAP __(現在)

写真は開通翌年の1914(大正3)年の初代「調布駅」の様子。場所は現在より西にあった。1916(大正5)年6月には南(写真左)方向に分岐して「多摩川原駅」(現「京王多摩川駅」)までの支線が、9月には西(写真正面)方向に「飛田給駅」まで、10月にはさらに「府中駅」まで延伸されている。【画像は1914(大正3)年】

写真は2021(令和3)年撮影の初代駅舎付近の様子。写真中央の奥から二つ目のビル(「京王調布小島町ビル」)付近が初代の「調布駅」と推定される。二代目の「調布駅」は「調布銀座」(青い門柱の商店街)から手前付近にあり、1953(昭和28)年、支線の分岐部分のカーブを緩くするため、200mほど新宿寄りの現在の場所に移設された。2012(平成24)年には線路が地下化され、駅も地下駅となった。写真左手の建物は2017(平成29)年に開業したショッピングセンター「トリエ京王調布 C館」で、2~4階にはシネマコンプレックスの「イオンシネマ シアタス調布」が入り、『映画のまち 調布』の新たな映画関連施設として注目されている。写真手前から延びる広場は、線路跡に暫定利用の広場として整備された「てつみち」。2023(令和5)年に閉鎖となり、2024(令和6)年より歩行者利便増進道路として活用される。【画像は2021(令和3)年】

開通当初の「京王電車」のルート

「京王電車」の開通当初、「下仙川駅」(現「仙川駅」)~「調布駅」の区間は現在より北側のルートを通り、「下仙川駅」~「柴崎駅」間の一部は「甲州街道」上の併用軌道(路面電車)として建設された。開通当初に併用軌道であったのは全線を通じてこの区間のみ。「軌道条例」の特許で建設したため、一部でも道路上に軌道を設ける必要があった。地図は1917(大正6)年測図の地形図で、その当時の駅名・ルートをピンク色で、1927(昭和2)年に変更となったルート・駅などを紺色で記載している。【地図は1917(大正6)年】

写真は「甲州街道」と交差する「京王電車」。撮影場所は、現在の「布田駅前交差点」で、西方面を望んでいる。1917(大正6)年、この付近に「布田駅」が開設されたが、当初は上地図にあるように「国領駅」と呼ばれていたと思われる。場所は、現在の「常性寺」境内付近に描かれているが、詳細は不明。写真の電柱広告には「塚善本店」の文字が書かれている。「塚善本店」は、戦前頃まで国領の「甲州街道」沿い(現在の「高津装飾美術」の場所)にあった料亭。
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同じ場所から撮影した「旧甲州街道」の様子。「布田駅前交差点」は交通の要衝で、「京王バス」などのバス便も多く通過する。

「多摩川」の砂利採掘

「多摩川」流域では、江戸時代から砂利の採取が行われていたという。明治時代になると、道路・鉄道のバラスト用として大粒のものが採取されるようになった。大正期にはコンクリートの骨材としての需要も増加、機械船の導入や鉄道による大量運搬も行われるようになった。特に大正末期から昭和初期にかけて「関東大震災」の復興需要も高まり、「多摩川」の砂利採掘は最盛期を迎えた。「京王電軌」は明治末期の設立時から「多摩川」の砂利の採掘・運搬・販売を目的の一つとしており、開通から3年後の1916(大正5)年には「調布駅」~「多摩川原駅」(現「京王多摩川駅」)間に支線を開通させ、駅から河原までは馬が引くトロッコの線路も敷設された。1927(昭和2)年には砂利採掘専門の子会社「京王砂利株式会社」も設立された。【画像は1930(昭和5)年頃】

「多摩川」の河川敷での砂利採掘が制限されると、堤内で採掘が行われるようになり、採掘跡には「砂利穴」と呼ばれる大きな窪地や池が見られるようになった。1965(昭和30)年頃の調布市の地図にも多数の「砂利穴」を見ることができる。「東宝調布スポーツパーク」や府中の「多摩川競艇場」は「砂利穴」跡を利用した施設となっている。写真は「東宝調布スポーツパーク」の入口付近。敷地は道路面より数メートル窪んでおり、かつて「砂利穴」であったことを感じさせる。
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砂利運搬と観光地開発を目的として敷設された支線は、1971(昭和46)年に「京王よみうりランド駅」まで延伸、京王相模原線と改称された。その後、神奈川県の「橋本駅」まで延伸され、「多摩ニュータウン」住民をはじめ多くの乗客を運ぶ路線となっている。写真は「多摩川」の「京王相模原線鉄道橋」を渡る京王相模原線の車両。
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電燈の供給と軌道の開通 MAP __(開通当初の滝坂付近)

「滝坂」付近

開通した年の「仙川駅」から調布方面へ向かう途中、「滝坂」付近の様子で、線路はまだ単線。跨線橋から望む「富士山」は「滝坂富士」と命名された。【画像は1913(大正2)年】

「京王電軌」が設立された頃の明治末期、私鉄を開業するためには「私設鉄道法」(「地方鉄道法」の前身)による免許を取得する必要があったが、厳しい法律の規定から新規の開業が困難であった。一方、道路や軌道(路面電車)を管轄する「内務省」は、少しでも道路上を通るのであれば「軌道」である、として比較的簡単に特許を与えたため、多くの私鉄路線が「軌道条例」(「軌道法」の前身)に依り建設された。

「京王電軌」の路線も「軌道条例」による特許を得て建設され、1913(大正2)年に「笹塚駅」~「調布駅」間を開業した。開業当初の併用軌道(路面電車)区間は現「つつじケ丘駅」の北側の「甲州街道」上、600mほどの区間のみで、その他の区間は全て専用軌道(新設軌道)であった(その後、代々幡及び新宿周辺が併用軌道区間として開通している)。軌間(線路の幅)は、「私設鉄道法」では国有鉄道(現JR)と同じ1067mmという規定があるが、「軌道条例」では規定がないため、東京市電(のちの都電)と同じ1372mmを採用している。これは東京市電への乗り入れを考慮したものであったが、実現はしなかった(東京市電の貨物電車は、「関東大震災」後に「多摩川」の砂利を都心部へ運搬するため「京王電軌」に乗り入れている)。この軌間は現在の京王線にも引き継がれている。1945(昭和20)年に「軌道法」から、「地方鉄道法」の適用を受けるようになり「鉄道」に変更された。

「京王電軌」は沿線地域へ電燈の供給も行った。1913(大正2)年1月には、4月の軌道の開通に先駆けて、調布町(現・調布市の西部)など沿線4町村に電燈の供給を開始。以降範囲を拡げ、1916(大正5)年には神代村(じんだいむら、現・調布市の東部)、千歳村・松沢村(現・世田谷区の一部)、高井戸村(現・杉並区の一部)などにも供給、1925(大正14)年には30町村まで電燈を供給するようになった。また、1916(大正5)年は電力も供給するようになるなど、沿線地域の発展に大きく貢献した。


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MAP

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