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明治期に誕生した施設

明治期の麻布・赤坂は、大名の中・下屋敷の広大な跡地が広がる郊外であり、軍用地のほか、墓地、療養のための病院などの施設も置かれた。麻布には「東京天文台」も置かれたが、明治末期には周辺の都市化が進み、明かりが天体観測の障害となるようになったため移転が検討されるようになった。


神道専用の「神葬墓地」から始まった「青山霊園」MAP __

明治初期、明治新政府の「神仏分離」政策の一環で、寺院に属さない神道専用の「神葬墓地」が求められていた。1872(明治5)年7月、会津藩出身の桐生氏が開いた「立山墓地」が、さらに同年11月には「立山墓地」に隣接する広大な郡上藩青山家の下屋敷跡地が「神葬墓地」として指定された。翌1873(明治6)年、政府が都市開発などの理由から従来の寺院・墓地を含め、朱引内(都心部)での埋葬を禁止したこともあり、1874(明治7)年に宗旨・宗派を問わない公共の墓地「青山墓地」として改めて開園となった。現在の「青山霊園」に改称したのは1935(昭和10)年。【画像は1931(昭和6)年頃】

「青山霊園」には、政治家、文学者、芸術家など歴史上の著名人の墓所も多くあり、参拝に訪れる人も多いほか、桜の名所としても知られている。写真は最初に墓地ができた「立山墓地」で、現在は「青山霊園立山地区」と呼ばれている。
MAP __(立山地区)

天体観測、暦の編纂、報時などを行った「東京天文台」 MAP __

「東京天文台」は、「海軍水路部観象台」「内務省地理局観測課」「帝国大学理科大学天象台」の統合により、「帝国大学理科大学付属東京天文台」として1888(明治21)年、麻布区飯倉町(現・港区麻布台)に発足、初代の天文台長は星学科教授の寺尾寿が務めた。「東京天文台」では天体観測のほか、暦の編纂、報時(標準時の発信)などが行われた。その後、施設が増え用地が手狭になり、また周辺の市街化による明かりが観測条件を悪化させたため、1909(明治42)年に三鷹に移転用地を購入、1924(大正13)年に移転した。写真は移転後の1931(昭和6)年頃撮影された旧「東京天文台」。移転後も、暦の編纂、報時などはここ麻布の地で引き続き行っていた。【画像は1931(昭和6)年頃】

1892(明治25)年、当時「東京天文台」があったこの地に日本国内の測量の基準点となる「日本経緯度原点」が定められ、「東京天文台」の移転後も引き続きここに定められている。写真は現在の「日本経緯度原点」。「東京天文台」は1988(昭和63)年に「国立天文台」に改組されている。

現在も残る明治期の「麻布区役所」の建物

1878(明治11)年に誕生した麻布区。写真は1909(明治42)年に竣工した当時の「麻布区役所」で、現在の港区六本木三丁目にあった。
MAP __【画像は1909(明治42)年】

この建物は「日本獣医学校」(現「日本獣医生命科学大学」)が買い取り、1937(昭和12)年に北多摩郡武蔵野町(現・武蔵野市)の「武蔵境駅」南東側へ移築、現在も第一校舎1号棟(本館)として使用されている。
MAP __(日本獣医畜産大学1号館)

1935(昭和10)年、「麻布区役所」は現在の六本木五丁目へ移された。写真は移転後の「麻布区役所」。
MAP __【画像は1935(昭和10)年】

「麻布区役所」の跡地は、現在「麻布地区総合支所」となっている。

ローマ式建築で知られた「青山脳病院」 MAP __

1903(明治36)年、青山にドイツの精神病院を模範として、脳病・神経病などを診療する「青山病院」が開院。1906(明治39)年には「青山病院」内に、パリの病院を模範とした「帝国脳病院」が創立された。数年かけて増築が繰り返し行われ、4,500坪の敷地に建てられた壮大なローマ式建築の大病院となり、青山の名所に。写真は明治後期の撮影で、看板にはそれぞれの病院名が掲げられている。その後、両病院は統合され「青山脳病院」となった。1924(大正13)年、多くの死者を出した火災を起こし、再建に際しては周辺住民の反対などもあり、1926(大正15)年に松沢村松原(現・小田急「梅ヶ丘駅」の周辺)へ移転した。【画像は明治後期】

「青山脳病院」を開院した斎藤紀一は、歌人としても有名な医師、斎藤茂吉の養父で、松原への移転後は茂吉が新院長となっている。芥川龍之介は茂吉の知り合いであり、患者でもあった。現在「青山脳病院」跡地はマンションなどになっており、その一画に茂吉の歌碑(写真右下)が建てられている。


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