写真はローシー氏の肖像とオープンしたばかりの「ローヤル館」で、「ローヤルオペラハウス」とも呼ばれた。写真にもあるように、「ローシーオペラコミック」の名称で公演を打っていた。
【画像は大正期】
イタリア生まれの舞踊家・振付師・演出家であるジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー氏は、「帝国劇場」に招かれ1912(大正元)年に歌劇部(翌々年に洋劇部に改称)の指導者として来日し、創成期にあった日本のオペラ・バレエの指導に尽力、『蝶々夫人』『魔笛』などの日本初演も行った。しかし、歌手やオーケストラの演奏技術の不足や、台本の訳詞技術(日本語に翻訳して公演を行っていた)の低さなどもあり興行的には振るわず、経費もかかることから、「帝国劇場」はローシー氏との契約が満了した1916(大正5)年をもって洋劇部を解散した。
写真右下付近が「ローヤル館」の跡地で、右の建物が跡地を含む場所に建てられていた「赤坂見附MTビル」(2022(令和4)年解体)。
【画像は2019(令和元)年】
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職を失ったローシー氏は同年、私財を投じて赤坂見附にあった映画館「萬歳館」を買収・改装し、オペラハウス「ローヤル館」を開館した。こけら落としはプリマドンナの原信子氏、清水金太郎氏をはじめとする「帝国劇場」出身者や、養成した団員(歌手30名、オーケストラ14名)による『天国と地獄』の公演であった。その後、原語イタリア語での『カヴァレリア・ルスティカーナ』(日本初演)、『セビリアの理髪師』(日本初演)など、オペラやオペレッタの公演が打たれた。
しかし、やはり興行成績は振るわず、1918(大正7)年、『椿姫』(日本初演)の公演を最後に解散となり、ローシー氏はアメリカに渡った。この頃から、「帝国劇場」出身の歌手や、「ローヤル館」が養成した歌手を中心として、浅草でオペラ公演が打たれるようになり、その後「浅草オペラ」が隆盛期を迎える。短い期間ではあったが、ローシー氏と「ローヤル館」が日本の音楽史上に果たした役割は多大であった。
「ローヤル館」は、ローシー氏が去ったのち、映画館「赤坂帝国館」となり、1921(大正10)年に「松竹」が買収、戦中頃まであったといわれる。「赤坂帝国館」の跡地一帯には、1975(昭和50)年に「東京サントリービル」が竣工となった。同時にビル内へ「サントリー美術館」が移転開設されたが、2007(平成19)年に「東京ミッドタウン」へ再移転となっている。「東京サントリービル」は、近年は「赤坂見附MTビル」へ改称されていたが、2022(令和4)年に建て替えのため解体された。