沿線の歴史散策 INDEX

国内有数の設備を誇った「京阪グラウンド」

図は1920年代発行の『御案内 京阪電気鉄道株式会社』のうち、「門真駅」から「樟葉(くずは)駅」までの区間を切り出したもの。

「運動場前駅」は現在は存在しない駅。「京阪電鉄」は沿線開発の一環として、1922(大正11)年1月に運動場の建設に着手し、同年3月に最寄駅として「運動場前駅」を設置、同年4月に「京阪グラウンド」が開場となった。

「京阪グラウンド」には、国内有数の設備を誇る陸上競技場や、「甲子園球場」が誕生するまでは日本一の野球場とも呼ばれていた「寝屋川球場」などが置かれた。「全国選抜中等学校野球大会」(現「選抜高校野球」)の誘致も進めていたが、沿線の春の行楽シーズンに重なるため、責任ある乗客輸送が困難になるという現場の懸念から見送りとなった。

戦時下となった1942(昭和17)年、「京阪グラウンド」は「住宅営団」へ売却され、軍需工場などの勤労者のための「豊野住宅」として開発、駅名は翌年「豊野駅」へ改称となった。跡地一帯は、戦後も引き続き団地・住宅地となった。1963(昭和38)年、「寝屋川市駅」が約200m北へ移転したため、近接する「豊野駅」は統合される形で廃止に。現在、「京阪グラウンド」跡地の一画となる「八坂町交差点」には、1990(平成2)年に「京阪電鉄」が設置し寝屋川市に寄贈した「寝屋川球場跡」の記念碑がある。

開設当初の「寝屋川球場」 開設当初の「寝屋川球場」。
明治末期の「香里遊園地」 明治末期の「香里遊園地」。

「京阪電鉄」は鉄道の建設を進める中で、沿線に集客施設が必要と考え、友呂岐(ともろぎ)村(現・寝屋川市北部)の丘陵地を買収し「香里遊園地(香里園)」の整備を始めた。1910(明治43)年の開通時は未完成のままでの開園となり、見どころも少なく来場客を集めるには至らなかったが、同年秋に開催した「菊人形」は好評を得たため翌年も開催した。しかし、会社全体の経営改善のため1912(明治45)年に閉園、跡地は住宅地として開発することとしたが、思うような成果は上がらなかった。

大正中期以降、東京や大阪の郊外住宅地が注目されるようになり土地会社や電鉄各社による住宅地開発が本格化。「京阪電鉄」は改めて「香里園」の分譲地開発に着手、1928(昭和3)年の第一回売り出しで好評を得たことから分譲地を拡張、さらに沿線のほかの駅周辺でも住宅地開発を進めていった。図は1933(昭和8)年に「京阪電鉄」が発行した『香里園住宅経営地』の案内図。斜線の部分はこの時点で分譲済であった。

図中央の「聖母女学院高等女学校」(現「香里ヌヴェール学院中学校・高等学校」)は「京阪電鉄」が誘致し、1932(昭和7)年に移転してきた。右上の「成田山別院建設地」は「京阪電鉄」が土地を寄進し施主として建設中だった「成田山大阪別院明王院」で、1934(昭和9)年に創建となり、現在も地元を中心に信仰を集めている。

1933(昭和8)年発行の『香里園住宅経営地』の案内図 1933(昭和8)年発行の『香里園住宅経営地』の案内図。現在も一帯は閑静な住宅街となっている。
大正後期~昭和戦前期頃の「枚方遊園」 大正後期~昭和戦前期頃の「枚方遊園」。現在は遊園地「ひらかたパーク」となっており『ひらパー』の愛称で知られている。

「香里遊園地」は早々に閉園となったが、秋の「菊人形」は好評であったため、枚方町に場所を移して開催することに。「京阪電鉄」は「枚方駅」(現「枚方公園駅」)付近の約3,000坪を買収し、同1912(大正元)年秋に「枚方菊人形」を開催、以降、概ね毎年開催されるようになった。1925(大正14)年、「京阪電鉄」は集客の季節が限定される経営を改善するため「ボート池」「飛行塔」などの遊戯施設を整備し、この頃から「枚方遊園」と呼ばれるようになった。

戦時中の1943(昭和18)年の「菊人形」開催後、「枚方遊園」の土地は農地として供出され、戦後も引き続き企業などが利用していた。その後、市民から枚方での「菊人形」の復活を望む声が大きくなり、枚方市は旧「枚方遊園」の土地を買収、市立の都市公園「枚方公園」を整備し、1949(昭和24)年に戦後第一回の「ひらかた菊人形」が開催となった。公園の敷地・建物は1952(昭和27)年に「京阪電鉄」へ譲渡され遊園地「ひらかたパーク」となり、「大劇場」「ハリケーンコースター」「大バラ園」などの整備も進められた。毎年秋には「ひらかた菊人形」の開催が続けられてきたが、近年は大規模な開催が難しくなり、2005(平成17)年に惜しまれながら幕を閉じた。


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