土地の境界がわからない、調べてもはっきりしない。現地でも、机の上でも、わかりづらい土地の境界について、具体例を交えて、できる限りわかりやすく伝える(ことを目的とした)、土地家屋調査士が解説したアドバイスです。
土地に対する人の思いと境界
B(亡くなったAの息子)
「あの土地の問題は、父さんが悪いんだよ。周りの人が知らない間に杭を動かして、人の土地を奪おうとする。ほんの二尺。(中略)これは泥棒で、言い逃れができないことだろう?」
C(農場経営者)
「わかってる・・・。そうだ・・・。」
「それでも、おまえには、お父さんのことは、わからないさ。」
「二尺がわずかか?」
B「・・・。」
C「二尺四方掘り起こすのに、畳一枚ほどの岩があったらどうする?でっかい木の根がはってたらどうする?」
B「・・・。」
C「一町掘り起こすのに三年もかかった。そういう時代に生きてきた者の土地に対する執着心がおまえにはわかるか?」
※一尺は30.3㎝。一町は3000坪・9900㎡。
これは、私が昔見たドラマのワンシーンをヒントに書いたフィクションです。境界についてのやりとりが5分程度あるのですが、私にとって非常に心に残る、また、何か大切なことを思い返させてくれるシーンです。
当然、境界杭を勝手に動かして、人の土地を奪い取ろうとすることは不法行為です。しかし今回のコラムでは、その当たり前のことについて語るつもりはありません。私は土地境界に関して、また境界立会い等を通して、たくさんの土地所有者の方に会う機会を頂きました。その中で、一筋縄ではいかない頑固な方や、気難しい方、感情的な方、感情を全く出さない方、泣き出してしまう方とも対峙してきました。土地に対する強い思いを相手が表明された時、いくら国家資格者の肩書きがあるからと言っても、若輩者である私は委縮してしまいそうになるときが多々ありました。そんなときに、出会ってきた一筋縄ではいかない地主の方々から教わったことを思い返し、丁寧に人と人の機微をわきまえ、接するよう心掛けて参りました。
このドラマのワンシーンは、境界に関する人の思いを題材に、その人と人の機微をうまく切り取った描写であると感じずにはいられません。
冒頭のシーンを、少し補足いたします。このドラマは、東京から故郷に帰郷し、大自然の中で暮らす家族を描いたドラマです。冒頭のシーンは、村一番の偏屈者の老人Aが亡くなり、その通夜振舞いでのシーンです。
このAという男は、古い考えの持ち主であり、周りからの評判はすこぶる悪いものでした。若いころは非常に温厚であったとか。妻の死後、酒もともなって孤独になり、一筋縄ではいかない偏屈者になっていくようです。一方、孫に深い愛情を注ぐなど、時おり非常に人間味のあふれる一面もありました。
Aの通夜のあと、都会から久しぶりに故郷に戻ってきたBは、通夜振舞いの席で、父親の思い出話しに花を咲かせています。と言っても、語られる思い出話しは評判のよくないものばかりで、通夜振舞いに参加した一部の者は沈黙してしまいます。普段からAのそばにいた、村人たちは、Aの心優しい部分も知っており、そんな思い出話しには共鳴できないのです。
通夜振舞いの様子は、盛り上がりと沈黙とが両極端に描写されていきます。思い出話しは、ついに、父親が境界の境界杭を勝手に動かし人の土地を奪うという冒頭のシーンに発展します。その時、Cという村の小さな農場経営者であり、かつて土地の開拓をAと共にした男が、ついに重い口を開くという展開になります。
「そういう時代に生きてきた者の土地に対する執着心がオマエらにはわかるか?」という問いは今でも、私の境界立会いに対する姿勢を育てていく上で、大きな糧になっています。
村一番の偏屈者とは言いませんが、個性的な方との境界立会いでは神経をすり減らすような対話が続きます。境界杭や測量図の話しならまだしも、水路や立木などの地形の話、家族や先代の話、村の噂話、隣地との過去からの因縁まで発展することもしばしばです。しかし意外にも、不明確になった筆界や所有権界は、境界杭や図面ではなく、対話の中に生まれる身の上話などから、特定のきっかけを発見することが多くあるように思います。
「土地に対する執着心」は人それぞれではありますが、根気強さと誠実さで対話し、紐解いていくしかありません。その意味や重要性に気付かず、一方的に測量図や現況を信奉し、対話を疎かにしてまったことで、まとまる話しもこじらせてしまったことが少なからずあったと思います。恥ずかしい限りです。そんな経験を重ねていく中で、このドラマのワンシーンを通して、悪い意味で使われることの多い「執着」という言葉を、良い意味としてとらえることができるようになりました。
「なぜ、境界杭の位置から30センチほど離れて石壁が設置されているのか?」「よく見ると、公図の線形と酷似している形で、杉の木が立ち並んでいないか?」ということに気付いてしまった時、なぜそうなっているのか、石壁を設置した職人、杉の木を植えた地主たちに直接お話しを聞ければそれが一番でしょう。しかし、当事者がすでに存在せず、現状だけが残っている場合も多々あるのが現実です。
もし、「そこから離れられない」という意味を含む「執着」という言葉を積極的に肯定できれば、そこにはまだ当事者が存在するとも考えられるのではないでしょうか。今は亡きAが勝手に動かしてしまった境界杭を検証することは大変に困難なことですが、必ず復元できることでしょう。
最後に余談ですが、私の大切なお客様に、それこそ土地に対する執着心は天下一品、地元では頑固者で周りから恐れられる方がいらっしゃいます。一緒に農作物を収穫したり、駐車場を掃除したり、最近購入したスマホを教えてあげたりと、もはや調査士業務を超えたお付き合いをさせて頂いております。穴の堀り方、木の切り方、昔の境界のことなどをたくさん教えていただきました。決まって、最後は戦時中の空襲や疎開の話しになって、私の帰りが遅くなってしまうのですが、時が経つにつれ、本当にありがたい経験をさせて頂いているなと思う今日この頃です。
私たちができることは、その土地に想いを巡らせた人々がいたことを忘れないことだと思います。都会でも地方でも、その土地を開拓し、定住し、管理し続けた人々の苦労を忘れずに、今後も、我が国の筆界を見守っていきたいと思います。
杭を残して、悔いを残さず!ありがとうございました。