2017(平成29)年に第40回を迎えた「八尾河内音頭まつり」は、1978(昭和53)年の第1回「八尾まつり」に始まっている。写真は第1回「八尾まつり」で行われた総勢700名の「河内音頭大行進」の様子。
八尾市を中心とした河内地方で行われる盆踊り歌である「河内音頭」。八尾市の「常光寺」境内で行われるゆったりしたテンポで素朴な味わいの「八尾の流し」は「流し節正調河内音頭」と呼ばれるもので、室町時代初期の「常光寺」再建の折、都から材木を運んだときの「木遣り音頭」が元歌だといわれる。
現代の「河内音頭」は、北河内地方に江戸時代から伝わる「交野節」が源流といわれる。明治初期、詞の定型にこだわらず、節付けも自由に変化させて歌う音頭が編み出され、音頭取りの名前から「歌亀節」などと呼ばれた。明治中期には大阪市内の演芸場でも人気を博したという。
1914(大正3)年、大阪電気軌道(現・近鉄奈良線)が開通し、その祝賀と「生駒トンネル」工事の犠牲者供養のための盆踊り大会が開催された。この時、二代目歌亀の「歌亀節」に感激した、大阪市平野から来ていた音頭取りたちは、その後独自の工夫を加え「平野節」を編み出し、初音家を名乗って活躍し始めた。
戦後、初音家源氏丸によって「平野節」に浪曲のリズムを取り入れるなど改良を加えた「浪曲音頭」が誕生。1960年代に鉄砲光三郎がジャズや「安来節」などの要素を採り入れた「鉄砲節河内音頭」を編み出し、現代「河内音頭」の発展へ大きな革新を起こした。鉄砲光三郎のレコード『民謡鉄砲節河内音頭』は大ヒットとなり、「浪曲音頭」は「河内音頭」の名に変わって広まり、その後も、続々と「河内音頭」のスターが登場した。
1984(昭和59)年には、河内家菊水丸が、明治期に流行し戦後に滅んでいた「新聞(しんもん)詠み」を復活させた。世相・事件を題材にした作品を200作以上発表し、CMにも登場するなど、全国的に知られるようになった。現在は「伝統河内音頭継承者」として活躍している。