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交通の発展と周辺の住宅地開発

現在の八尾市・東大阪市周辺では、1889(明治22)年に大阪鉄道(現・JR大和路線)、1895(明治28)年に浪速鉄道(現・JR学研都市線)、1914(大正3)年に大阪電気軌道(以下大軌、現・近鉄奈良線)、1924(大正13)年に大軌八木線(現・近鉄大阪線)と、明治・大正期に多くの路線が開通した。大軌沿線では大正末期から宅地分譲が多く行われるようになり、住宅地としても発展した。


「大軌」の「生駒トンネル」 MAP 12

「大軌」は、大阪と奈良を最短で結ぶため、「生駒山」に「生駒トンネル」を掘削した。完成当時としては国内2番目に長い全長3,388mのトンネル(複線用としては国内最長)であった。レンガにより作られており、その使用数は約3,000万個にも及ぶ。大規模な岩盤崩落など工事は困難を極めたが、1914(大正3)年に竣工、開通した。写真は「生駒トンネル」の大阪側の入口と「日下駅」(のちの「鷲尾駅」「孔舎衛坂(くさえざか)駅」)。【画像は大正前期】

近鉄奈良線の「生駒トンネル」(以下・旧トンネル)および「孔舎衛坂駅」は1964(昭和39)年の「新生駒トンネル」開通で廃止となった。1986(昭和61)年開通の近鉄東大阪線(現・けいはんな線)の「生駒トンネル」は、旧トンネルの東側(生駒側)の一部区間を再利用している。旧トンネルは、2009(平成21)年「経済産業省」により「近代化産業遺産」に認定された。

「阪神飛行学校」に始まる「八尾空港」 MAP 13

1938(昭和13)年に操縦士の育成を目的とした民間学校「阪神飛行学校」が開校、1940(昭和15)年に陸軍に移譲され「大正陸軍飛行場」となり、翌年には敷地が約6倍に拡張された。戦後、米軍に接収され「阪神飛行場」となり、1954(昭和29)年に全面返還、1956(昭和31)年に「八尾飛行場」となった。写真は同年5月に行われた「八尾空港まつり」の様子。米軍機や民間航空機など20数機が並び、約5,000名の参観者があった。【画像は1956(昭和31)年】

1961(昭和36)年に「八尾空港」に改称。現在は小型航空機の専用空港で、定期便は就航していない。民間航空会社が航空測量調査、パイロット養成、取材報道、遊覧などの飛行を行っている。また、「陸上自衛隊」「大阪府警察航空隊」などが常駐し、災害発生時の援助基地として重要な役割を担っている。

「太平洋戦争」中は、たびたび攻撃を受けたため、周辺には飛行機用の防空壕である掩体壕(えんたいごう)が多数建設された。写真は八尾市垣内四丁目に残る掩体壕。大阪府内で唯一現存する掩体壕であり、貴重な戦争遺跡となっている。MAP 14

大軌沿線の住宅地開発

沿線に奈良、生駒など有名な観光地があることから、開業当初の「大軌」は自社線を名所観光路線と位置づけ、住宅地開発には消極的であった。経営が安定した大正末期以降、観光輸送による収入の季節的な偏りを減らし、通勤利用による安定的な収入を増やすべく、沿線住宅地の開発を行うようになった。また、沿線ではこの頃から土地会社による開発・分譲も多く行われた。上は1931(昭和6)年頃撮影の『石切の住宅地』と題された写真。当時の本には『「石切駅」付近には別荘または住宅が建ち並び電車で大阪に通勤する人が多い』とある。【画像は1931(昭和6)年頃】

現在の上石切の住宅地の様子。「生駒山地」西麓の扇状地上に位置し、眼下に「河内平野」が広がる。MAP 15

1931(昭和6)年頃撮影の『瓢箪山住宅地』と題された写真。「瓢箪山駅」の北側、「東高野街道」を挟んで東西に位置し、当時の本には『この方面における住宅中最も立派なもの』と紹介されている。

「瓢箪山駅」から望む「生駒山地」の山並み。「瓢箪山住宅地」として開発された場所は、駅の北側、現在の東大阪市昭和町、本町一帯となる。MAP 16

日本初の町営分譲住宅として誕生した「東翠園」 MAP 17

昭和初期、小阪町(現・東大阪市の一部)は分譲住宅の建設を計画した。当時、「大軌小阪駅」(現「河内小阪駅」)の東に新駅設置の計画があり、町東部の発展を促進するためのものであった。1936(昭和11)年11月に全50戸が完成、入居者によって「東翠園」(大阪の東に位置するみどりの園の意味)と名付けられた。これは、日本で最初の町営分譲住宅であった。同月、新駅の「八戸ノ里駅」も開業している。写真は分譲記念で発行された絵葉書。【画像は1936(昭和11)年頃】

「東翠園」として分譲された住宅地は現在の「八戸の里病院」の周辺となる。住宅の多くは建て替えられているが、一部に当時のハイカラな住宅を今も見ることができる。


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