『浦和風景』1929年 高田誠 埼玉県立近代美術館蔵 「埼玉会館」と桐を題材に描かれている。
『浦和画家』という言葉が広まったのは、大正~昭和戦前期で、耕地整理事業によって宅地の整備が進められていた浦和に学者や文化人、芸術家などが東京から移り住んだことに始まっている。明治期以降の浦和の街は官庁、学校等の公的機関をはじめ、病院や教会などの洋風建築が点在し、そのまわりに畑や雑木林、牧場が広がる田園都市であった。東京に近く、ハイカラで牧歌的薫りのする土地柄は、美術を学ぶ画家にとって心ひかれる場所のひとつだったのかもしれない。
「浦和コルソ」のアーチ状の大きなモザイク壁画も高田誠氏の作品。
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『浦和画家』の一人である高田誠氏(1913(大正2)年~1992(平成4)年)は、生まれてから亡くなるまで、浦和で生涯を過ごしており、長く地域を代表する画家として活躍した。浦和の風景を題材にした作品も多く、市内では数か所で壁画を見ることもできる。
写真左が「ヒアシンスハウス」、右奥が「別所沼」。
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詩人・建築家の立原道造氏(1914(大正3)年~1939(昭和14)年)も浦和にゆかりのある文化人として知られている。1939(昭和14)年頃、立原道造氏は当時芸術家村の様相をみせていた「別所沼」のほとりに、週末住宅として「ヒアシンスハウス(風信子荘)」建設を構想したが、結核のため24歳の若さで世を去り実現しなかった。
2003(平成15)年、さいたま市が政令指定都市へ移行する際、「別所沼公園」は埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に「さいたま市政令市記念市民事業」として「別所沼公園」の一画に、立原道造氏が夢見た「ヒアシンスハウス」の建物がスケッチから再現されることになり、2004(平成16)年に完成。現在は地域の文化活動の拠点となっている。