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軍都としての発展

1873(明治6)年、「小金牧」の跡地の一部は陸軍の演習場となり明治天皇により「習志野原」と命名された。その後、1896(明治29)年に「高津廠舎」(実籾)、1901(明治34)年に「騎兵旅団」(大久保)、1907(明治40)年に「鉄道連隊第三大隊」(津田沼)、1917(大正6)年に「陸軍騎兵学校」(薬園台)が置かれるなど、一帯には陸軍関連施設が建設された。また、行田には海軍の大規模な無線電信所も作られた。戦後、これらの施設の広大な跡地には、学校や工場、住宅地なども誕生している。


明治天皇により命名された「習志野原」

1873(明治6)年、「小金牧」の跡地の一部、「大和田原」と呼ばれる地が陸軍近衛兵の演習場となり、明治天皇は「習志野ノ原」と命名、同年の太政官達で「習志野原」と呼ばれるようになった。図は演習天覧の様子で、中央の塚上が天皇の御座所。「習志野原」は、現在、習志野市・船橋市・八千代市の一帯で広域的に使われる「習志野」という地名の由来となっている。【図は1874(明治7)年】

1917(大正6)年、明治天皇の幕舎跡(現・船橋市習志野台四丁目「みゆき町会館」付近)に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処」の碑が建てられた。写真は1936(昭和11)年頃の撮影。 MAP __【画像は1936(昭和11)年頃】

「明治天皇駐蹕之処」の碑は、1994(平成6)年に「薬円台公園」内に移設された。 MAP __

「真珠湾攻撃」の暗号電文が発信された無線塔 MAP __

「日露戦争」後、「日本海軍」の艦船の行動範囲の拡大により大規模な無線電信施設が必要となり、1915(大正4)年、塚田村行田(現・船橋市行田)に「海軍無線電信所」が作られた。1923(大正12)年に霞ヶ関の「海軍省」内に受信所が置かれたため「海軍無線電信所船橋送信所」と改称。写真は大正後期から昭和初期の撮影で、真中に高さ約200mの半自立型の主塔があり、周囲に高さ約60mの副塔が18基建ち並んでいた。昭和10年代に鉄塔6基などからなる鉄塔群に建て替えられた。【画像は大正後期~昭和初期】

「真珠湾攻撃」の決行を告げる暗号電文「ニイタカヤマノボレ」はここから発信された。「太平洋戦争」後にアメリカ軍に接収され、1966(昭和41)年に返還。1971(昭和46)年から翌年にかけて解体・撤去され、跡地は団地や「千葉県立行田公園」などになった。写真は公園内に設置されている「船橋無線塔記念碑」。

ドイツ人によるオーケストラもあった「習志野俘虜収容所」 MAP __

1914(大正3)年の「第一次世界大戦」の「青島(チンタオ)の戦い」に勝利した日本軍は、約5,000名のドイツ将兵を捕虜とし、そのうちの約1,000名が、翌年から1920(大正9)年までの間「習志野俘虜収容所」に収容された。所長は、西郷隆盛の嫡子、西郷寅太郎であった。【画像は1918(大正7)年頃】

収容所では、音楽をはじめとする文化活動やスポーツも行われた。「習志野捕虜オーケストラ」(写真)は所内でたびたび演奏会を開き、ベートーヴェン、モーツァルト、ヨハン・シュトラウスなどの曲が演奏された。【画像は1918(大正7)年頃】

「習志野俘虜収容所」の跡地にあたる「東習志野四丁目児童遊園」内に「ドイツ捕虜オーケストラの碑」が建立されている。

騎兵連隊跡地に移転してきた「東邦大学 習志野キャンパス」 MAP __

「東邦大学」の前身である「帝国女子医学薬学専門学校」(現・医学部、薬学部)、および「帝国女子理学専門学校」(現・理学部)は、創立時より東京の大森にあったが、空襲で施設の大部分が焼失し、新たなキャンパスとして大久保の「騎兵第十三連隊」跡を利用することとなり、1946(昭和21)年に「帝国女子理学専門学校」と「帝国女子医学薬学専門学校」の薬学科が移転した。写真は1946(昭和21)年頃の様子で、正門やその後ろの建物は、騎兵連隊時代から使用されていたもの。【画像は1946(昭和21)年頃】

現在は「東邦大学 習志野キャンパス」となっており、敷地内には「騎兵第十三連隊発祥之地碑」がある。広大な騎兵連隊の跡地の一部には、このほかにも「東邦大学付属東邦中学校・高等学校」「日本大学生産工学部」があり、大久保は『騎兵の町』から『学びの町』になった。


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