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北摂の商業・産業の中心地へ

江戸時代、池田は「摂泉十二郷」の一つの「池田郷」と呼ばれる酒どころだった。明治以降は銀行などが設立され、のちの「ダイハツ工業株式会社」が工場・本社を置くなど、池田は北摂の商工業の中心地となった。また、当初は住宅地として開発が進められた豊中も、人口の増加とともに駅前の商店街が発展し、現在も賑わいをみせている。


「摂泉十二郷」の酒どころ「池田郷」 MAP __

池田の酒造りの祖といわれる満願寺屋九郎右衛門が政治的手腕により「酒造御朱印」を江戸幕府から授かった事を機に池田には酒造業者が急増した。当時、甘口の酒が台頭していたなかで、「猪名川」の伏流水で醸した辛口の「池田酒」は人気を集め「摂泉十二郷」の一つ「池田郷」として、最盛期には38軒もの酒蔵があった。1900(明治33)年の『鉄道唱歌(東海道編)』では『池田伊丹と名にききし酒の産地もとほるなり』と「池田酒」について歌われている。写真は「満願寺屋」の酒蔵。【画像は1920(大正9)年頃】

江戸後期になり、伊丹やに酒造の中心は移るが、現在でも「吉田酒造」と「呉春酒造」の二軒が「池田酒」を守り継いでいる。写真は「呉春酒造」の酒蔵。

「ダイハツ工業株式会社」の前身 「発動機製造株式会社」

1907(明治40)年、「大阪高等工業学校」(現「大阪大学 工学部」)の学者と技術者・実業家が中心となり、エンジンの国産化を目指す「発動機製造株式会社」が設立された。日本の産学連携の草分けといえる存在で、会社・工場は現在の「梅田スカイビル」の場所に置かれ、エンジンや自動車(特に三輪自動車)の製造を手掛けるようになった。

戦時体制下に入ると軍需品生産の要請もあり、1939(昭和14)年に「池田工場」が開設された。建設地は、かつては果樹園が拡がる場所であった。戦後の1951(昭和26)年、現在の社名「ダイハツ工業株式会社」へ改称している。写真は戦後、昭和20年代の「池田工場」。
MAP __【画像は昭和20年代】

1961(昭和36)年に「池田第二工場」(現「本社(池田)工場第2地区」)が操業を開始、1965(昭和40)年には本社も「池田第二工場」の場所へ移った。本社および「池田第二工場」の場所の町名は1966(昭和41)年に「ダイハツ町」となっている。「池田工場」は「池田第一工場」へ改称ののち、現在は「本社(池田)工場第1地区」(写真)と呼ばれている。
MAP __(本社)

広岡浅子氏ゆかりの「加島銀行」 MAP __

「加島銀行」は朝のテレビドラマのヒロインのモデルとしても有名になった実業家・広岡浅子氏が設立に関わった銀行で、明治中期から昭和戦前期にかけて大阪を中心に営業していた。「能勢街道」沿い(現・池田市栄本町)に建てられた「加島銀行 池田支店」は1918(大正7)年に「辰野片岡建築事務所」が設計した木造2階建、鉄板葺きの建物。石と組煉瓦の外観で組積造風に見せている。【画像は大正期】

「加島銀行」の廃業後は「三和銀行」(現「三菱UFJ銀行」)の支店となり、現在はインテリア用品等を扱う「河村商店」となっている。建物は国の有形文化財に登録されている。

北大路魯山人氏の高級料亭「星岡茶寮」 MAP __(星岡茶寮跡地) MAP __(東光院)

美食家としても知られる陶芸家・書家、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)氏が主宰する会員制の高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」。その大阪店が1935(昭和10)年に志方勢七氏の邸宅「衆楽園」を改装して開業した。近くには「萩の寺」として有名な「東光院」があり、魯山人氏はその萩苑を「萩露園(しゅうろえん)」と命名している。また、自ら制作した「白衣観音像」を奉納し、その萩の花の美しさを礼賛し、茶寮繁栄を祈願した。【画像は昭和前期】

「星岡茶寮」は「曽根駅」の近く、写真の駐車場付近にあった。「太平洋戦争」中の空襲で被災したが、戦後に復興し1958(昭和33)年まで営業を続けた。

「豊中駅」駅前の商店街 MAP __

「豊中駅」は箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄宝塚線)の開通より3年ほどあと、1913(大正2)年に開設された。1922(大正11)年、誘致により「大阪府立豊中中学校」が駅の北東1kmほどの場所に開校すると、通学路となる道路、通称「中学校道」が敷設された。昭和初期頃から駅周辺の「中学校道」沿いに商店が建つようになり、1930(昭和5)年には「阪急豊中市場」も開設され、周辺は商店街として発展した。写真は1936(昭和11)年の撮影で、右の建物が「阪急豊中市場」。【画像は1936(昭和11)年】

現在、かつての「中学校道」は通称「豊高道」と呼ばれており、このあたりは「豊中銀座商店街」となっている。「阪急豊中市場」は老朽化などを理由に1982(昭和57)年に解体となり、翌年、跡地に「チェリオビル」(写真右のアーケード付近)が竣工した。「阪急豊中市場」の名残として、近くに「市場前」というバス停があったが、2016(平成28)年11月に「宮山幼稚園前」と「豊中稲荷神社前」に名称変更された。


インスタントラーメン発祥の地、池田 MAP __(安藤百福発明記念館 大阪池田)

安藤百福氏

安藤百福氏【画像は1957(昭和32)年】

安藤百福(ももふく)氏は「日清食品」の創業者であり、インスタントラーメンの発明者として世界的にも知られている。1910(明治43)年、百福氏は日本統治下の台湾で生まれ、台北で莫大小(めりやす)を輸入する繊維商社「東洋莫大小」を経営して成功した。1933(昭和8)年、日本に移り「日東商会」の設立や、製塩事業を始めたり、「日清食品」の母体となる「中交総社」を設立したりと、次々と新規事業を起こし成功を収めた。

しかし、1957(昭和32)年、理事長を務めていた大阪の信用組合が破綻し、すべての財産を失うことになった。そこで、百福氏は池田市の自宅裏庭の小屋で、ひとりインスタントラーメンの開発に励んだ。自宅での孤独な試行錯誤の末、1958(昭和33)年、天ぷらの原理を応用した瞬間油熱乾燥法という技法により世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成した。


発売開始当初の「チキンラーメン」 画像は1958(昭和33)年

発売開始当初の「チキンラーメン」
【画像は1958(昭和33)年】

その後、米国に視察に出掛けた百福氏は「チキンラーメン」を小分けにして紙コップに入れフォークで食べる現地の人々の姿を見て、カップ麺を発想。これが1971(昭和46)年の「カップヌードル」発売につながった。その功績が称えられ「勲二等瑞宝章」「大阪府池田市名誉市民賞」「勲二等旭日重光章」などを受賞した。2007(平成19)年1月5日、生涯現役だった百福氏は仕事始めの訓示を行った翌日、96歳で没した。


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