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『航空発祥の地』

所沢は日本初となる飛行場、「所沢飛行場」が開設されたことから『航空発祥の地』と呼ばれている。航空技術の開発や訓練などを行う軍用施設として使用され、日本の航空技術の発達に多大の貢献を果たした。戦後、飛行場は米軍により接収され「在日米陸軍所沢基地」となったのち、1971(昭和46)年に大部分が返還され、返還地には公共性の高い施設が建設された。



日本初の飛行場

1903(明治36)年、ライト兄弟による世界初の動力飛行の成功以降、欧米では航空技術の実用化が急速に進んだ。日本でも航空技術を研究するため1909(明治42)年に「臨時軍用気球研究会」が創設され、飛行場用地として所沢が選定された。当時、気球隊が駐屯していた東京の中野町(現・中野区)からの鉄道の便の良さや、地形・気候が気球に適していたことが選定の理由といわれる。翌年に着工となり、飛行機を運搬するための道(現在「飛行機新道」と呼ばれる)も造られた。

1911(明治44)年、日本初の飛行場となる「臨時軍用気球研究会」の「所沢試験場」が開設された。幅50m・長さ400mの滑走路と、格納庫、気象観測所を備えていた。その後、航空技術の開発や訓練などを行う軍用施設として使用され、日本の航空技術の発達に多大の貢献を果たした。当初約76haであった飛行場の敷地の拡張も徐々に行われ、終戦時には約365haとなっていた。

終戦後は米軍により接収、「在日米陸軍所沢基地」と呼ばれ通信基地及び補給廠として利用されたのち、1971(昭和46)年に通信基地を除く大部分が返還された。その後、広大な返還地には公共施設や学校、集合住宅など、多くの公共性の高い施設が建設された。

返還地に誕生した主な施設
  施設名 開設・移転年 備考
国の施設 防衛医科大学校 1975(昭和50)年  
所沢税務署 1976(昭和51)年  
東京航空交通管制部 1977(昭和52)年  
防衛医科大学校病院 1977(昭和52)年  
所沢郵便局 1978(昭和53)年 現在は民営化
さいたま地方法務局 所沢支局 1979(昭和54)年 2005(平成17)年新庁舎へ移転
所沢合同庁舎 1993(平成5)年  
県の施設 埼玉県立所沢北高等学校 1974(昭和49)年  
所沢航空記念公園 1979(昭和54)年  
埼玉県立所沢中央高等学校 1980(昭和55)年  
所沢警察署 1980(昭和55)年 2019(平成31)年新庁舎へ移転
武蔵野住宅 1982(昭和57)年 県営住宅・所沢パークタウンの一部
所沢航空発祥記念館 1993(平成5)年  
市の施設 東部浄水場 1974(昭和49)年  
所沢市立美原小学校・美原中学校 1975(昭和50)年  
所沢市民体育館 1976(昭和51)年 2004(平成16)年新体育館竣工
所沢市立並木小学校・中央中学校 1979(昭和54)年  
所沢市立所沢図書館 1980(昭和55)年  
所沢市役所 1987(昭和62)年  
所沢市民文化センター ミューズ 1993(平成5)年  
その他 所沢電報電話局 1980(昭和55)年 現・NTT東日本 所沢並木ビル/所沢市役所 別館
駅前通り団地・公園通り団地 1979(昭和54)年 所沢パークタウン
日本住宅公団(1981(昭和56)年より住宅・都市整備公団)による開発(現・UR都市機構)
並木通り団地 1980(昭和55)年
グリーン並木団地 1982(昭和57)年
駅前プラザ団地 1984(昭和59)年
航空公園駅 1987(昭和62)年 西武新宿線

飛行船「雄飛号」と格納庫 MAP __

1912(明治45)年6月にドイツより輸入された飛行船「バルセヴァル」は「所沢飛行場」で組み立てられ、1912(大正元)年8月に初飛行に成功したが、翌年、着陸時に破損。修復を兼ねて改造され、1915(大正4)年に「雄飛(ゆうひ)号」(写真)となり、翌年、大阪までの試験飛行を行い全国的に有名になった。その後、仙台への夜間往復飛行実験などが行われ、1917(大正6)年に廃止された。 【画像は1915(大正4)年】

写真は1911(明治44)年着工、1913(大正2)年に完成した飛行船格納庫。建築家・内田祥三氏が最初期に設計した建物で、ここで「雄飛号」の改造も行われた。【画像は大正期~昭和初期】

この格納庫は、現在の「所沢航空記念公園」の「子ども広場」(写真)付近にあった。

将校・下士官の教育が行われた「陸軍航空学校」 MAP __

1919(大正8)年に開校した「陸軍航空学校」(写真)では、将校及び下士官の教育が行われた。1924(大正13)年に「所沢陸軍飛行学校」へ改称、1933(昭和8)年に少年航空兵教育も加えられた。1935(昭和10)年には機関科が「陸軍航空技術学校」として分離独立し、その後、1939(昭和14)年に立川へ移転した。1938(昭和13)年には整備教育を行う「陸軍航空整備学校」(1943(昭和18)年に「所沢陸軍航空整備学校」へ改称)も分離独立し、終戦まで幹部候補生の教育、少年飛行兵技術教育の中心的存在となった。【画像は大正後期】

写真は1976(昭和51)年の撮影。写真右に見える建物が1920(大正9)年に建てられた旧「陸軍飛行学校」本館。米軍基地時代はアメリカ兵のアパートとして、基地返還後は一時、税務署に使われた。【画像は1976(昭和51)年】

現在の「西新井交差点」。旧本館は、1983(昭和58)年に野球場建設のため取り壊され、跡地は「所沢航空記念公園野球場」となっている。

国内最初の飛行機事故犠牲者の記念塔

1913(大正2)年、「陸軍省」は航空機の重要性を説くため、帝国議会議員を対象に「青山練兵場」で観覧飛行を行った。「所沢飛行場」への帰路、木村・徳田両中尉の搭乗した飛行機が突風を受け、現在の「所沢聖地霊園」のあたりに墜落、両中尉は国内最初の飛行機事故犠牲者となった。翌年、墜落現場に両中尉の記念塔が建立され、その後1929(昭和4)年に「所沢駅」前に移設された。写真は駅前当時の記念塔。現在、西口駅前のこの写真の場所付近には、「日本の航空発祥地所沢」の碑が建てられている。 MAP __(駅前当時の場所)【画像は昭和戦前期】

その後、記念塔は「多摩湖畔」「航空自衛隊入間基地」への移設を経て、1981(昭和56)年に両中尉の帰還予定地だった「所沢飛行場」の跡地である「所沢航空記念公園」内に移設された。 MAP __(現在の記念塔の場所)

1929(昭和4)年、記念塔が移設となった墜落現場には、代わりに「木村 徳田両中尉殉職之処」と刻まれた石碑が建立された。この場所は、現在は「西武グループ」が開発・運営している「所沢聖地霊園」の一角となっている。 MAP __(石碑の場所)


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