山崎~西宮間を結ぶ「山崎通」は、西国大名の参勤交代などに利用され「西国街道」とも呼ばれていた。山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の6宿が置かれ、庶民の通行も多く、賑わっていたという。
現在の高槻市内・茨木市内には「西国街道」とも呼ばれた「山崎通」が通っており、沿道には宿場町が発展。また「高槻城」「茨木城」の城下町、「総持寺」の門前町、富田の寺内町などの町も発展した。「総持寺」は「西国三十三所」の霊場でもあり、古くより多くの参拝客や巡礼者が訪れている。
現在の高槻市内・茨木市内には「西国街道」とも呼ばれた「山崎通」が通っており、沿道には宿場町が発展。また「高槻城」「茨木城」の城下町、「総持寺」の門前町、富田の寺内町などの町も発展した。「総持寺」は「西国三十三所」の霊場でもあり、古くより多くの参拝客や巡礼者が訪れている。
山崎~西宮間を結ぶ「山崎通」は、西国大名の参勤交代などに利用され「西国街道」とも呼ばれていた。山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の6宿が置かれ、庶民の通行も多く、賑わっていたという。
「楠公父子訣児之處碑」は1876(明治9)年の建立で、碑の裏面には当時の駐日英国公使 ハリー・パークスの英文が刻まれている。現在は「史跡桜井駅跡史跡公園」の一画にある。 MAP __
「高槻城」は、1569(永禄12)年に和田惟政によって城の基礎が築かれ、1573(天正元)年、高山右近が本格的な城郭を造り上げた。江戸時代には、岡部氏を経て、高槻藩永井家の居城となっていた。明治に入り廃城、「高槻城」の跡には、1909(明治42)年に「陸軍工兵第四大隊」が置かれた。図は江戸後期の制作で、画面中央の下に描かれているのが「高槻城」。城郭の大部分が省略されているが、実際は濠に囲まれており、三層の天守を有する本丸があった。外濠の北と東には城下町が記されている。