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下屋敷・別邸からの発展

高田馬場・早稲田周辺は江戸・東京の中心地への近さと、豊かな自然を兼ね備えた地であり、江戸期には下屋敷、明治期になると別邸が置かれた。このような歴史と土地利用を背景に、文教の地としての発展を見せた。


「清水徳川家」の下屋敷から「相馬邸」へ MAP __(甘泉園公園)

江戸期に、「徳川御三卿」の一つ、「清水徳川家」の下屋敷があり、その庭園は、茶の湯(茶道)に適した湧水があったことから「甘泉園」と呼ばれた。切絵図は、1854(嘉永7)年に出版された『大久保絵図』の一部で、概ね北が上になるように回転させてある。左上の「清水殿」とある場所が「清水徳川家」の下屋敷。この場所は、明治期に政治家・経済学者で、「専修学校」(現「専修大学」)の創設者の一人でもある、相馬永胤の邸宅となった。【図は1854(嘉永7)年】

この地は、1938(昭和13)年に「早稲田大学」が取得していたが、戦後の1961(昭和36)年に敷地の北側は東京都に売却されて都立公園へ、1969(昭和44)年に新宿区へ移管され、現在は「新宿区立甘泉園公園」(写真)となっている。南側の高台部分の一部は、「早稲田大学」のキャンパス拡張に伴う「水稲荷神社」の敷地との交換に利用され、1963(昭和38)年に「水稲荷神社」が移転してきている。

「大隈邸」の跡地は「大隈庭園」などに MAP __

佐賀藩士だった大隈重信は、明治に入ると新政府で要職を務めた。大蔵卿(大蔵大臣に相当)だった1874(明治7)年、早稲田に別宅を購入、「東京専門学校」(現「早稲田大学」)を開設したのち、1884(明治17)年より本邸とした。ここは、江戸期に「高松藩松平家」「彦根藩井伊家」の下屋敷だった場所で、大名庭園を改修した広大な庭園もあった。「大隈邸」は1901(明治34)年に焼失、翌年に再建された。写真は再建後の「大隈邸」で、左の建物が温室、中央奥が書院。温室では、メロンや蘭などの栽培も行っていた。【画像は明治後期】

1922(大正11)年に大隈重信が逝去すると、邸宅と庭園は「早稲田大学」へ寄贈された。邸宅は「大隈会館」となり学生や教職員の集会場として、庭園は「大隈庭園」として一般にも公開され、名園として親しまれた。「大隈会館」「大隈庭園」とも「東京大空襲」で大きな被害に遭ったが、戦後に再建・再整備され、二代目「大隈会館」は、1950(昭和25)年に竣工となった。【画像は1950年代】

二代目「大隈会館」は「早稲田大学」の100周年記念事業で建替えが行われ、1994(平成6)年、三代目「大隈会館」が開館。同時に「大隈庭園」内の隣接地にコンベンション施設として、「リーガロイヤルホテル東京」も開業となった。写真は現在の「大隈会館」(右の建物)で、左の建物が「リーガロイヤルホテル東京」。
MAP __(リーガロイヤルホテル東京)

写真は明治後期~大正前期の「大隈邸」の門衛所。1902(明治35)年、「大隈邸」の再建時に建設された。【画像は明治後期~大正前期】

現在、「大隈庭園」の入口には、「大隈邸」当時の門衛所がそのまま残されている。「旧大隈邸門衛所」と呼ばれ、「早稲田大学」の構内で一番古い建物となっている。
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日本初の私立の洋式病院

松本良順(以下良順)は佐倉藩の病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設した佐藤泰然の次男として生まれ、幕府の「医学所」(「東京大学医学部」の前身)の頭取も務めた医師。「戊辰戦争」では幕府軍の軍医であったため、新政府に捕らえられるが、1869(明治2)年に釈放された。

釈放後、良順の長男が暮らしていた早稲田を訪れると、その静寂な自然環境に魅せられ、「穴八幡宮」向かいの広大な土地(現在の「早稲田中学校・高等学校」から旧「早稲田実業学校」にかけての一帯)を入手、翌1870(明治3)年、日本初となる私立の洋式病院「早稲田蘭疇(らんちゅう)医院」を開院した(「蘭疇」は良順の号)。ここには、良順の邸宅のほか、医学を教える「松本内塾」、医学のための語学塾の「蘭疇舎」も置かれ、教育の場ともなった。

良順の自宅があった場所

松本良順、のちに犬養毅の邸宅があった場所付近。
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その後、山縣有朋が「蘭疇医院」を訪れ、良順に「日本陸軍」の軍医への就任を要請。良順はその熱意に応え、1871(明治4)年に「兵部省病院御用掛」に就き、良順は多忙となったため、「蘭疇医院」は「兵部省」(翌年より「陸軍省」)が借り受けることになった。翌年、良順は松本順へ改名、1873(明治6)年、初代「陸軍軍医総監」に就任した。

「早稲田蘭疇医院」などがあった広大な敷地は、明治中期頃に「早稲田中学校」「早稲田実業学校」の校地となったほか、良順の邸宅があった場所は、1896(明治29)年から1919(大正8)年まで、衆議院議員の犬養毅の邸宅となった。


「米騒動」をきっかけに開設された「戸塚市場」 MAP __

「第一次世界大戦」が始まると、日本は「大戦景気」と呼ばれる好景気となり工業が発展する一方、1918(大正7)年から米の生産不足や輸入減が重なり価格が上昇。すると投機的な動きや、農家・問屋の売り惜しみや買い占めも起こり、さらに米価格が急騰した。これにより消費者の生活が苦しくなると、全国的に「米騒動」と呼ばれる暴動事件に発展、こうした社会不安を受け、政府は様々な施策を実施。都市部の各自治体は、適正な価格で食料や日用品を供給するため、小売の公設市場(いちば)を相次いで設立した。

東京市・東京府においても1918(大正7)年から翌年にかけて、多くの公設市場が開設された。当時、東京市外・東京府下にあった戸塚町においては、1919(大正8)年、「東京府市場協会」により「戸塚市場」が開設された。写真は1929(昭和4)年に撮影された「戸塚市場」。【画像は1929(昭和4)年】

戦後1946(昭和21)年に新宿区へ移管され「新宿区設戸塚小売市場」となり、1964(昭和39)年には教職員住宅併設のビルに建替えられ、市場は地下に設けられた。以降も周辺住民の生活を支えてきたが、時代の変化もあり、2008(平成20)年に廃止。2010(平成22)年、跡地に「西早稲田リサイクル活動センター」(愛称「戸塚エコ市場」)が整備された。


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