1960年代、都市部近郊の農村の都市化が進む中、1968(昭和43)年に農家と農協が主導するまちづくり「農住都市構想」が提唱された。「農民がまちづくりに対し自主的に結集して集団的に取り組む」「宅地を求める社会的圧力は時代の要請として積極的に受け入れ、良好な住環境をつくる」「地元住民と新規住民の交流を通じて新しい地域社会を創造する」というものであった。
同年、「小田急電鉄」が「多摩ニュータウン」への新線の分岐駅として、百合ヶ丘~柿生間に新駅を作る計画を発表。新駅予定地周辺の地権者である農家は「農住都市構想」に基づく都市建設に取り組み始めた。また、当時の川崎市には、多摩区を分区し、この地区を行政の中心とする構想もあったことから、地権者と川崎市による協同開発が進められることとなった。
1974(昭和49)年、小田急多摩線が開通、「新百合ヶ丘駅」が開業したことで早急なまちづくりが求められるようになった。行政センターや商業地、学校、集合農地、共同住宅地などの施設や、道路、駅前のターミナル、駅前デッキ、歩行者道などが計画・設計され、1977(昭和52)年に「新百合丘駅周辺土地区画整理組合」が設立、土地区画整理が開始された。
1982(昭和57)年に麻生区が誕生、翌年に「新百合ヶ丘駅周辺地区」が川崎市の新都心として位置づけられ、行政の中心地としての発展も始まった。駅周辺の土地区画整理は1984(昭和59)年度に完了した。
1991(平成3)年、川崎市は、新百合ヶ丘を芸術文化を振興する拠点とする「芸術のまち構想」を発表。その後、「昭和音楽大学」「川崎市アートセンター」などの立地により、芸術・文化施設がさらに充実、「しんゆり芸術祭」「しんゆり映画祭」など多くのイベントも開催されるようになり、現在では『芸術のまち』として広く知られるようになっている。