1949(昭和24)年、高石(現「百合ヶ丘駅」周辺)では「西生田駅」(現「読売ランド前駅」)と「柿生駅」の間に新駅を誘致しようという声が上がり、地元の有力者が「小田急電鉄」に陳情。当初、「小田急電鉄」は新駅設置に消極的であったが、周辺の住宅地は「小田急電鉄」が開発するという条件で、新駅設置が進められることとなった。
1954(昭和29)年より、地主から「小田急電鉄」への土地譲渡が始められたが、1956(昭和31)年に制定された「首都圏整備法」で緑地帯に指定され、開発が規制されるなどの問題が出てきたため、地主らは「日本住宅公団」(1955(昭和30)年設立、現・UR都市機構、以下公団)に開発を陳情、その後、土地(主に農地・山林)のとりまとめを行い、14万坪の土地を公団に譲渡、団地の造成が進められることになった。「津久井道」から造成地まで入る道が必要であったことから、まず最初に「高石橋」が小田急線上に架けられ、1959(昭和34)年に完成。この橋は「百合ヶ丘駅」に隣接し、現在も利用されている。
1960(昭和35)年1月、公団住宅の命名の会議が開かれ、高石の旧名主家で駅・公団住宅の誘致に尽力してきた笠原博氏の発案で、「弘法松」から見下ろした百合の花から、また100人近い地主の協力があっての「百合う丘」の意味を込めて『百合ヶ丘』と決まった。
「百合ヶ丘駅」は1960(昭和35)年3月に開業、同年9月、公団「百合ヶ丘団地」(賃貸1751戸)に入居が始まった。土地を提供した地主には、駅前の商業地の土地を優先的に分譲することになっていたため、地主の経営する店を中心とする駅前商店街も誕生した。