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交通の要衝としての歴史

「江戸(東京)湾」及び「目黒川」の河口の港町でもある品川は、交通の要衝として古くより栄えた。律令時代には、武蔵国の国府・府中の外港となった(品川と府中を結んでいた古道は、現在「品川みち」などと呼ばれる)。江戸期には「東海道」最初の宿場町として賑わい、明治に入ると日本で最初の鉄道駅が設置され、旧「東海道」は「国道1号」(現「国道15号」)として幹線道路となった。昭和初期までには港、運河、水上飛行場も整備された。


日本で最初に開業した駅「品川停車場」

1872年6月(明治5年5月)、日本で最初の鉄道として、官営鉄道(のちの国鉄、現・JRの東海道本線)の品川~横浜間が仮開業、「品川停車場」は「横浜停車場」とともに日本で最初に開業した駅となった。当初「品川停車場」が置かれた場所は、「品川宿」の中心地から少し北側に外れた「八ツ山橋」のすぐ北側の海岸沿いにあり、現在の「品川駅」より300mほど南側にあった。写真は明治初期の「品川停車場」。
MAP __【画像は明治初期】

現在の「八ツ山橋」から望む、当初の「品川停車場」があった場所付近の様子。正面の橋は京急の「八ツ山跨線線路橋」。京浜電気鉄道(以下京浜電鉄、現・京急)は1925(大正14)年に「八ツ山橋」上の併用軌道を通る形で、「高輪駅」(現「品川駅」西口付近、このとき旧「品川駅」は「北品川駅」に改称)まで延伸されたのち、1933(昭和8)年にこの専用橋が完成した。

1877(明治10)年、アメリカの動物学者、エドワード・シルベスター・モースは、貝の研究のために来日した。翌日、「文部省」へ訪問するために官営鉄道で横浜から新橋へ向かうが、その途中、「大森停車場」を過ぎて線路西側の崖に貝塚を発見。その後、モースにより発掘調査が行われ、「大森貝塚」(発掘当時は「大森介墟(かいきょ)」と呼ばれた)は日本考古学上、最初の遺跡となった。図は1879(明治12)年に出版された発掘報告書『大森介墟編』に掲載されている発掘風景。
MAP __【図は1877(明治10)年】

写真は品川区にある「大森貝塚遺跡庭園」内の「大森貝塚」の碑(1929(昭和4)年に建立)と、すぐそばを通るJR京浜東北線の電車。品川区により1984(昭和59)年と1993(平成5)年に発掘調査が行われ、広範囲の貝層や住居跡が見つかった。

京浜電鉄の品川までの延伸

大師電気鉄道は1899(明治32)年に川崎・大師間で開業し、同年、京浜電鉄へ改称。その後、品川方面への延伸を進め、1904(明治37)年に「品川停留場」(現「北品川駅」)まで開通した。当時の官営鉄道の「品川停車場」(1885(明治18)年に現在地付近に移転済であった)までは離れていたが、「八ツ山橋」を挟んで路面電車(のちの東京市電・都電)の「八ツ山停留場」があり、歩いて橋を渡って乗り換え、都心方面へ向かうことができた。写真は1910(明治43)年頃の京浜電鉄「品川停留場」。写真左奥、駅に隣接する洋館は洋食の「富貴(ふうき)軒」。
MAP __【画像は1910(明治43)年頃】

大正末期までに「八ツ山橋」を渡って京浜電鉄と市電が相互に乗り入れるようになり、京浜電鉄は「高輪駅」(現「品川駅」前)まで延伸され、かつての「品川駅」は「北品川駅」に改称された。写真は2021(令和3)年撮影の京急「北品川駅」付近。現在、高架化工事が進められている。【画像は2021(令和3)年】

写真は明治後期の立会川付近の京浜電鉄。正確な撮影位置は不明であるが、道の形状などから「天祖神社」を線路の西側から撮影したものと思われる。【画像は明治後期】

現在の立会川の「天祖・諏訪神社」付近の様子。南浜川の鎮守「天祖神社」と北浜川の鎮守「諏訪神社」は「立会川」を挟んで南北に並んであったが、1965(昭和40)年に合祀された。京急は高架化されている。
MAP __

「東海道」から発展した「京浜国道」

江戸期の「東海道」は、1876(明治9)年に国道として指定され、1885(明治18)年に番号が付与されると東京・横浜間は「国道1号」(「京浜国道」)となった。大正期になると「京浜国道」の交通量が増えたため、「八ツ山橋」から横浜まで改築されることになり、東京府内の区間は1920(大正9)年に着工、1927(昭和2)年に完成した。「八ツ山橋」から鈴ヶ森の区間は、京浜電鉄の西側に並行して新しいバイパスが建設された。写真は昭和戦前期、「品川神社」の「富士塚」から北東方面を望んでおり、右下の通りが改築された「京浜国道」。右の大きい屋根の建物は「法禅寺」。
MAP __(富士塚)【画像は昭和戦前期】

現在の「品川神社」の「富士塚」からの眺望。中央右の大きい屋根の建物が「法禅寺」となる。

「京浜国道」の改築では、京浜電鉄との立体交差化も進められた(「八ツ山橋」付近は併用軌道となった)。写真は鈴ヶ森の立体交差部分に建設された「鈴ヶ森駅」で、手前が「京浜国道」。「八ツ山橋」からここまで、「京浜国道」は京浜電鉄の西側を通っているが、この立体交差で東西が入れ替わり、「京浜国道」は「旧東海道」と合流し大森海岸方面へ向かう。「鈴ヶ森駅」は1904(明治37)年の京浜電鉄延伸開通以来の駅で、「京浜国道」の建設による京浜電鉄の高架化に伴い1925(大正14)年に高架上にプラットホームが置かれた。
MAP __【画像は1932(昭和7)年頃】

写真は現在の「京浜国道」と「鈴ヶ森駅」跡地の様子。「鈴ヶ森駅」は戦時中の1942(昭和17)年に休止(翌々年廃止)されたが、高架上のプラットホームは昭和40年代初頭まで残っていた。「京浜国道」は1952(昭和27)年に「国道15号」となった。

日本初の「エアガール」が飛び立った「中島大井飛行場」 MAP __

「中島大井飛行場」は「中島飛行機」が1927(昭和2)年に設置した水上飛行場。滑走台、格納庫といった設備があり、水上飛行機の試験などが行われた。写真は1931(昭和6)年頃の様子で、格納庫から海上方面を望んでいる。【画像は1931(昭和6)年頃】

「中島大井飛行場」は、1940(昭和15)年に廃止。一帯の海面は戦中期までに埋め立てられ「勝島」となり、陸地との間には「勝島運河」が建設された。その後、「勝島運河」の南側部分が1977(昭和52)年から1981(昭和56)年にかけて埋め立てられ、1983(昭和58)年に「しながわ区民公園」が開園した。写真の左は「しながわ区民公園」の少年野球場、右奥は庭球場で、かつては、このあたりに滑走台があった。格納庫の跡地一帯は工場地として使用されたのち、現在はマンションとなっている。

1929(昭和4)年から1931(昭和6)年まで、「中島大井飛行場」から「下田港」を経由し「清水港」まで向かう定期便が運行された。1931(昭和6)年4月1日には日本初の「エアガール」(のちのスチュワーデス、現・キャビンアテンダント)が添乗したことで話題となっており、その直前の3月29日には、当時の逓信大臣・小泉又二郎氏(元総理大臣・小泉純一郎氏の祖父)が試乗している。写真は1932(昭和7)年頃の空撮で、中央の大きい建物が格納庫。【画像は1932(昭和7)年頃】


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