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鉄道の開通と沿線の開発

池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の開通は、沿線地域の発展を大きく後押しした。その中で、水の恵みが豊かな石神井においては、「三宝寺池」周辺が公園として整備され、現在の大泉学園町一帯では新設された駅の北側に、「箱根土地」による住宅分譲地の開発が進められた。


西武池袋線の前身、武蔵野鉄道の開業

1915(大正4)年4月15日、武蔵野鉄道は池袋~飯能間で開通した。現在の練馬区内には「練馬駅」「石神井駅」(現「石神井公園駅」)の2駅が置かれるのみだった。大正期~昭和初期にかけ私鉄3線(東上鉄道・武蔵野鉄道・西武鉄道)が開通したことは、農村地帯だった練馬区域の住宅地としての発展の礎となった。図は大正末期~昭和前期の『武蔵野鉄道沿線名所案内』の一部。駅が増えており、沿線の名所として「豊島園」や「三宝寺池」などが描かれている。【図は大正末期~昭和前期】

「三宝寺池」「石神井池」を中心に「石神井公園」を整備

「三宝寺池」の周辺は、豊かな自然と歴史を有することから、武蔵野鉄道が開通する大正前期頃より行楽地としての整備が進められた。また、周辺では別荘地・郊外住宅地としての開発も始まり、1930(昭和5)年、現在の「石神井公園」一帯は良好な景観を維持するため、風致地区に指定された。一帯の行楽地化が進む中、1933(昭和8)年、「石神井駅」は「石神井公園駅」へ改称され、翌1934(昭和9)年には「三宝寺池」から流れ出る「三宝寺川」をせき止めた「石神井池」が完成した。

「石神井池」(写真)はボートや釣りなどが楽しめる人工の池として築造された。「石神井ボート池」とも呼ばれ、「三宝寺池」で行われていたボートの営業は「石神井池」へ移された。
MAP __(石神井池) 【画像は1936(昭和11)年頃】

以降も、行楽地としての整備が進められ、一帯は「石神井公園」と呼ばれ親しまれた。都市計画的には、戦時中の1942(昭和17)年に「石神井緑地」(いわゆる防空緑地)に、戦後の1957(昭和32)年に都市計画公園へ指定され、1959(昭和34)年に「都立石神井公園」として開園となった。写真は現在の「石神井池」。

1920(大正9)年、「三宝寺池」の一角に国内初の100mプール「東京府立第四公衆遊泳場」が開設された。板で囲っただけの施設で、湧水を使用するため水温が低かったこともあり、1923(大正12)年にコンクリート製のプール(写真)に改修された。このプールから1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックの選手を輩出しており、日本の水泳界の発展にも貢献した。写真左奥には大正末期に開業した茶屋の「一力」が見える。【画像は1936(昭和11)年頃】

プールは1941(昭和16)年に閉鎖された。跡地は、1955(昭和30)年に釣り堀「石神井釣道場」となり、1986(昭和61)年に閉鎖されたのち公園用地へ編入され、1989(平成元)年に「水辺観察園」(写真)となった。プールの時代からの茶屋「一力」は1995(平成7)年に閉店したが、その隣にあった「豊島屋」(写真左奥)は、現在も営業を続けている。
MAP __(水辺観察園)

1935(昭和10)年、「三宝寺池沼沢植物群落」は国の天然記念物に指定された。その前年、1934(昭和9)年に「三宝寺池」でのボートの営業は新造された「石神井池」へ移されているが、その理由は「三宝寺池」の自然保護のためであったといわれる。写真は「三宝寺橋」で、1936(昭和11)年頃に架け替えられたあとの撮影。
MAP __(三宝寺橋)【画像は1936(昭和11)年頃】

写真は現在の「三宝寺橋」。

「箱根土地」が開発した「大泉学園」

現在の練馬区大泉学園町一帯は、「箱根土地」が開発した学園都市として知られる。「関東大震災」後の1924(大正13)年から土地を買収、住宅地の開発、整備を進め、大学の誘致は成功しなかったものの、学園都市の先駆けとなった。図は「箱根土地」による「大泉学園都市」の第1回、第2回の土地案内パンフレット。
MAP __【図は大正末期】

写真は現在の大泉学園町の様子。碁盤の目状に整備された広い区画が特徴となっており、閑静な住宅街として知られる。

「箱根土地」は、「大泉学園都市」の最寄り駅が遠かったため、「武蔵野鉄道」に「東大泉駅」を建設し寄付、1924(大正13)年に開業。その後、1933(昭和8)年に「大泉学園駅」へ改称した。写真は1938(昭和13)年頃の「大泉学園駅」。
MAP __【画像は1938(昭和13)年頃】

写真は現在の「大泉学園駅」の北口。

「武蔵野鉄道」の不動産課による「大泉学園町サンデーハウス土地付分譲」のパンフレット。『純良な水』『武蔵野ののどかな風致』などを謳っている。場所は大正期の分譲地の北側にあたり、大部分が現在の埼玉県新座市域となる。
MAP __【画像は1936(昭和11)年~1937(昭和12)年頃】

1934(昭和9)年、大泉には「東京市農会」による約5,400坪の「市民農園」と、隣接して「大泉風致協会」による「野遊地」(緑に囲まれた公園)が設けられ、芋掘り・運動会などの行楽で東京市民が訪れる地となった。図は「武蔵野鉄道」の不動産課(前掲の「サンデーハウス」と同じ)が1938(昭和13)年に作成した「大泉勤労の家」のパンフレット。『蔬菜や果物や花卉は自園のものを』『勤労報国』など当時の世相を反映した内容となっている。この分譲地は「市民農園」と「野遊地」の北側に隣接する一帯にあった。
MAP __(市民農園跡地)MAP __(大泉勤労の家分譲地)【図は1938(昭和13)年】

戦後、「都民農園」(1943(昭和18)年の東京都制より改称)は農地解放により廃止され、跡地は住宅地となり痕跡は残っていないが、バス停名「都民農園」にその名を残している。「野遊地」は1971(昭和46)年からの町会の陳情で東京都が買い上げることになり、1974(昭和49)年に「練馬区立大泉公園」(写真)として開園した。園内には「大泉学園」「市民農園」「野遊地」などの由来を記した碑が建てられている。
MAP __(大泉公園)


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