このまちアーカイブス INDEX

産業と鉄道 近代産業都市へ

明治初期まで、摂津国と和泉国の境界は、堺市内を東西に横切る「大小路筋」であったが、1871(明治4)年「大和川」に変更された。「大和川」は、現在は大阪市と堺市の境界となっている。明治時代には、「堺紡績所」や木造洋式燈台の「堺燈台」が建設され、大阪と堺を結ぶ交通機関として、阪堺鉄道や南海鉄道、阪堺電気軌道などが開通した。


薩摩藩による「堺紡績所」が戎島に誕生 MAP __

1870(明治3)年、堺の戎島に薩摩藩営の「鹿児島紡績所」の分工場である「堺紡績所」が設立された。鹿児島は消費地に遠く、原料の入手も難しかったため、取引が行われる大阪に近く、木綿も入手できる堺が選ばれた。1872(明治5)年、官営になった後は民間に払い下げられ、「岸和田紡績」へ合併吸収、1933(昭和8)年には老朽化により閉鎖された。【図は明治前期】

現在は「府営堺戎島住宅」の一角に跡地を示す案内板が立てられている。

木造洋式燈台の「堺燈台」 MAP __

1877(明治10)年、「堺港」(現「堺旧港」)の突端に高さ11.3m、六角錘形の木造洋式燈台である、「堺燈台」(現「旧堺燈台」)が建設された。土台の石積みは備前国出身の石工である継国真吉、建築工事は堺の大工、大眉佐太郎があたり、点灯機械の取り付けは英国人技師、ビグルストーンが担当した。約一世紀の間「大阪湾」を照らし続けていたが、1968(昭和43)年に役目を終えた。【画像は大正期】

建設当初の場所に現存する木造洋式燈台としては、わが国最古のもの。1972(昭和47)年に「旧堺燈台」として、国の史跡に指定された。

明治初期まで、摂津国と和泉国の境界だった「大小路筋」 MAP __

堺の東西幹線だった「大小路筋」を境にして、明治初期まで堺の町は「北荘(きたのしょう)」、「南荘(みなみのしょう)」に分かれており、「北荘」が摂津国、「南荘」が和泉国だったが、1871(明治4)年、当時の堺県が国境を「大和川」に変更し、「北荘」も和泉国となった。1911(明治44)年12月の阪堺電気軌道開通時には、当初の終点である「市之町停留所」(現「大小路停留所」)が置かれた。【画像は明治後期】

南海本線「堺駅」から「堺市役所」までの1.5kmは、「大小路シンボルロード」とも呼ばれている。1984(昭和59)年から、歩道の拡幅、電線の地中化などの整備事業が行われた。

阪堺鉄道の「堺駅」が開業 MAP __

阪堺鉄道(現・南海電鉄)は1885(明治18)年12月に難波・大和川間が開業し、1888(明治21)年5月の延伸により「堺駅」が開業した。当時は「吾妻橋駅」とも呼ばれ、堺の玄関口となった。【画像は明治後期】

現在の「南海堺駅ビル」は、1997(平成9)年に竣工した。1、2階部分が駅として使用され、東側駅前広場にバスターミナルが設けられている。

1895(明治28)年南海鉄道が発足、3年後に阪堺鉄道と合併 MAP __

堺と和歌山を結ぶ紀泉鉄道と紀阪鉄道が合併し、1895(明治28)年に南海鉄道(現・南海電鉄)が発足した。この南海鉄道は、1897(明治30)年に堺・泉佐野間の路線を開通後、翌年に阪堺鉄道の事業を譲り受けた。その後、「和歌山市駅」への延伸を果たし、現在の高野線である高野大師鉄道、大阪高野鉄道とも合併した。写真は1907(明治40)年に電化された難波・浜寺公園間を走る南海鉄道。【画像は1907(明治40)年】

写真は、南海電鉄南海本線「大和川橋梁」の堺市側から撮影。

1911(明治44)年阪堺電気軌道が開通、翌年に「宿院停留場」が開業 MAP __

1910(明治43)年に設立された阪堺電気軌道により、1911(明治44)年12月に恵美須町・大小路間が開通し、翌年1912(明治45)年、延伸した際に「宿院停留場」が開業、「大浜海岸停留場」まで支線が開通した。1915(大正4)年、南海鉄道と合併したが、1980(昭和55)年に再び、阪堺電気軌道として再出発した。【画像は大正期】

「宿院停留場」は現在、「千利休茶の湯館」、「与謝野晶子記念館」などがある「さかい利晶の杜」の最寄りの停留場。


次のページ 商業と郊外住宅地の形成


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る