1870(明治3)年、堺の戎島に薩摩藩営の「鹿児島紡績所」の分工場である「堺紡績所」が設立された。鹿児島は消費地に遠く、原料の入手も難しかったため、取引が行われる大阪に近く、木綿も入手できる堺が選ばれた。1872(明治5)年、官営になった後は民間に払い下げられ、「岸和田紡績」へ合併吸収、1933(昭和8)年には老朽化により閉鎖された。
明治初期まで、摂津国と和泉国の境界は、堺市内を東西に横切る「大小路筋」であったが、1871(明治4)年「大和川」に変更された。「大和川」は、現在は大阪市と堺市の境界となっている。明治時代には、「堺紡績所」や木造洋式燈台の「堺燈台」が建設され、大阪と堺を結ぶ交通機関として、阪堺鉄道や南海鉄道、阪堺電気軌道などが開通した。