奈良から大阪に流れる「大和川」は、古くは今よりも北西に流れ「大坂城」の北で旧「淀川」(現「大川」)に注いでいた。しかし、たびたび洪水を起こすことから、1703(元禄16)年に付替えが決定、1704(宝永元)年には工事が完成し、現在の堺市の北側で「大阪湾」に注ぐ流路になった。写真奥の煙突がある工場は「大和川染工所」で2022(令和4)年に廃業するまで操業を続けていた。写真の右下では「遠里小野橋(おりおのばし)」が建設中、右奥に架かる橋が手前から「阪堺線橋梁」「大和橋」。
1586(天正14)年、豊臣秀吉により、堺の濠は埋められて姿を消し、1615(元和元)年の「大坂夏の陣」で町は焼き討ちされた。その後、「元和の町割」で碁盤目状の街路が整備され、現在の「土居川」、「内川」にあたる濠が復活した。洪水により河内・摂津に甚大な被害をもたらしていた「大和川」の付替え工事も1704(宝永元)年に完成した。