「千利休屋敷跡」には椿の炭を底に沈めていた「椿の井戸」がある。
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堺では、豊かな富を背景にさまざまな文化が花開いた。千利休が大成した「わび茶」もその一つ。
奈良・平安時代、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが日本におけるお茶の始まりであるという記録が残っている。鎌倉時代の末期には、お茶の味や香りから、産地・種類などを当てて勝敗を決める「闘茶」と呼ばれる遊びが行われ、娯楽性の高い「茶の湯」が急速に広まった。当時、「茶の湯」は豪華な書院で行われ、高価な唐物を使っていた。15世紀後半から16世紀後半になると、「わび茶」の祖といわれる京都の村田珠光(じゅこう)がこれまでの娯楽性の高い「茶の湯」ではなく、禅の思想や俗世を離れた生き方を理想とし、精神性を重んじる「わび茶」を開いた。この「わび茶」を深化させたのが、堺の豪商だった武野紹鴎で、大成したのがその弟子の千利休であった。
千利休は、織田信長の茶頭となり「茶室外交」をリードした。信長は茶を通じて堺の商人たちと親交を深めたが、鉄砲や商人たちが持つ情報を手に入れることも狙いだった。その後、豊臣秀吉の茶頭として仕え、ここでも外交として多くの大名らを招いて茶会を開き、政治にも深く関わった。ほかにも利休は、黄金の茶室を設計したり、二畳ほどの茶室「待庵」を創作、秀吉が主催した大規模な茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を演出するなど多才であったが、1591(天正19)年、理由は諸説あるが、秀吉の怒りを買い、切腹となった。現在、利休が道を開いた「茶道」は三つの千家(「表千家」「裏千家」「武者小路千家」)などに受け継がれている。