「相模陸軍造兵廠」には終戦後の1945(昭和20)年9月に米陸軍が進駐、1949(昭和24)年に接収され、兵器、軍用車両などの修理を行う「米陸軍横浜技術廠相模工廠」となった。この工廠には日本人労働者も多く、その通勤のため、1950(昭和25)年に国鉄(現・JR)横浜線「相模仮乗降場」が再開(戦中に一時使用されていた)され、1957(昭和32)年に駅に昇格し「矢部駅」となった。1961(昭和36)年に「相模倉庫地区」と統合され「在日米陸軍相模総合補給廠」となった。
「軍都」となった相模原は、終戦後は米軍基地の街として引き続き発展した。また、戦時下に始められた区画整理事業は、その後の急激な都市化の基盤に。広大な陸軍施設の跡地および接収からの返還地は学校・公園・大規模団地など公共的な用地として活用された。2010(平成22)年、戦後生まれの市として初の政令指定都市となったことは相模原の急成長を象徴することといえる。