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基地の街から政令指定都市へ

「軍都」となった相模原は、終戦後は米軍基地の街として引き続き発展した。また、戦時下に始められた区画整理事業は、その後の急激な都市化の基盤となった。広大な陸軍施設の跡地および接収からの返還地は学校・公園・大規模団地など公共的な用地として活用された。2010(平成22)年、戦後生まれの市として初の政令指定都市となったことは相模原の急成長を象徴することといえる。


基地の街としての発展と「米軍戦車輸送阻止闘争」 MAP 42

「相模陸軍造兵廠」には終戦後の1945(昭和20)年9月に米陸軍が進駐、1949(昭和24)年に接収され、兵器、軍用車両などの修理を行う「米陸軍横浜技術廠相模工廠」となった。この工廠には日本人労働者も多く、その通勤のため、1950(昭和25)年に国鉄(現・JR)横浜線「相模仮乗降場」が再開(戦中に一時使用されていた)され、1957(昭和32)年に駅に昇格し「矢部駅」となった。1961(昭和36)年に「相模倉庫地区」と統合され「在日米陸軍相模総合補給廠」となった。【画像は1951(昭和26)年頃】

現在の「相模総合補給廠」の「西門」。ゲートは柱のみ残っている。JR横浜線「相模原駅」の北側約17haは2014(平成26)年に返還され、また、約35haは2015(平成27)年に共同使用が開始された。今後、返還地では新たなまちづくりが進められる。

「ベトナム戦争」が激化した1965(昭和40)年頃から、ベトナムで破損した戦車や軍用車両などの修理が行われていた。横浜で陸揚げされた戦車などは「国道16号」を通り搬入、修理後、横浜に向けて搬出されていた。1972(昭和47)年、修理した戦車がベトナムに輸送されたことが明らかになると、搬出を阻止しようとする人々が「西門」前に集まり、テントを張り連日抗議する「米軍戦車輸送阻止闘争」に発展した。【画像は1972(昭和47)年9月】

陸軍施設跡地と返還地の開発MAP 43(神奈川県立相模原公園)

戦時下の相模原は「陸軍士官学校」「相模陸軍造兵廠」のほかにも、多数の陸軍施設が設置され、戦後、一部の施設は米軍の接収となった。陸軍施設跡地や接収からの返還地は、都市が拡大する相模原市の学校・公園をはじめ、公共的な施設の用地として活用された。

終戦時の名称
(接収中の名称)
現在の主な施設(順不同)
陸軍士官学校 キャンプ座間
陸軍士官学校練兵場 相武台団地、麻溝台工業団地、北里大学 相模原キャンパス
(米軍座間小銃射撃場) 神奈川県立相模原公園
相模陸軍造兵廠 在日米陸軍相模総合補給廠
臨時東京第三陸軍病院 国立相模原病院、神奈川障害者職業能力開発校、相模原市立相模台中学校、相模台公園、相模原市立桜台小学校、相模台団地
陸軍兵器学校 麻布大学、相模原市立大野北中学校、防衛装備庁陸上装備研究所
陸軍電信第一連隊 在日米陸軍相模原住宅
陸軍通信学校 相模女子大学、相模原市立大野南中学校、神奈川県立神奈川総合産業高等学校
相模原陸軍病院
(米軍医療センター)
グリーンホール相模大野、相模大野中央公園、ロビーシティ相模大野五番街、伊勢丹 相模原店、神奈川県立相模原中等教育学校
陸軍機甲整備学校
(キャンプ淵野辺)
相模原市立博物館、淵野辺公園、宇宙航空研究開発機構、神奈川県立弥栄高等学校、相模原市立弥栄小学校、相模原市立弥栄中学校、相模原市立由野台中学校

1937(昭和12)年、「陸軍士官学校」の開設ともに、広大な「陸軍士官学校練兵場」(「相武台演習場」とも呼ばれた。面積786ha)が現在の相模原市南区麻溝台周辺に開設された。跡地は1946(昭和21)年、満州からの引揚者が中心に入植、農地として開墾された。その後、1962(昭和37)年頃から開拓地の売却が可能となったため、大型養鶏場などが誕生、相模原市の誘致から工場、大学も進出してくることとなった。「相武台団地」(1965(昭和40)年より開発)、「北里大学 相模原キャンパス」(1968(昭和43)年開設)、「麻溝台工業団地」(1971(昭和46)年造成)、「北里大学病院」(1971(昭和46)年開院)など大型の施設の誕生も相次ぎ、麻溝台周辺はこの時期に大きく発展した。

「陸軍士官学校練兵場」内の、古来より「鹿沼」と呼ばれた細長い窪地部分は小銃射撃試験場となっていたため接収され「在日米軍厚木小銃射撃場」(後に「座間小銃射撃場」に改称)として引き続き使用された。1969(昭和44)年に全面返還、その後2年間の自衛隊の使用を経て、1979(昭和54)年「神奈川県立相模原公園」が跡地に開園した。写真は自衛隊が使用していた1970(昭和45)年の射撃場。向かいに見える斜面は1951(昭和26)年に完成していた「横浜市水道局」の「相模原沈でん池」の堰堤。返還後、堰提の手前の場所には1978(昭和53)年に「柴胡が原(さいこがはら)陸橋」が開通している。【画像は1970(昭和45)年】

写真の場所は現在「神奈川県立相模原公園」内となる。噴水池や大パーゴラが整備され、周囲はメタセコイアの並木が植樹されている。

戦時体制下の区画整理による幹線街路は「国道16号」に MAP 44

現在の「相模原市役所」周辺の道路網は、戦時体制下の「相模原都市建設区画整理事業」により建設された。特に、現在の「相模原署前」交差点付近の南北・東西の街路は、緊急時の飛行機の発着と「相模兵器製造所」の避難路確保から40mもの幅員で建設された。東西の幹線街路は、1953(昭和28)年、横浜市から相模原町を通り千葉市へ至る区間が「二級国道129号(東京環状線)」の一部区間となった。1963(昭和38)年の路線変更により「一級国道16号」となり、これと同時に相模原と平塚を結ぶ路線が新たに「二級国道129号」として指定され、現在に至っている(翌々年の「道路法」改正で「一級国道」「二級国道」の区分は廃止)。

写真は1960年代の「国道16号」。現在の「中央中学校入口」交差点付近から北西方向を望んでいる。左上の建物は「電電公社(現・NTT東日本)」で、この当時はまだ鉄塔が立っていない。その右隣の建物は「相模原警察署」。【画像は1960年代】

「NTT東日本」の当時の建物は、鉄塔の隣に残っている。広い幅員を利用して、ゆったりとした歩道や自転車専用道、緑地帯も設けられている。

1968(昭和43)年に撮影された、現在の「相模原署前」交差点付近から北側を望む写真。奥に伸びる通りが通称「西門通り」で、突き当りが「相模総合補給廠」の「西門」。「相模原都市建設区画整理事業」で南北の幹線街路として整備されていた。手前の交差点で「国道16号」と交わっているが、ここは「相模原都市建設区画整理事業」ではロータリーとして整備されていた。MAP 45(西門通り)【画像は1968(昭和43)年】

急速に成長し、戦後生まれの市として初の政令指定都市へ MAP 46

戦前は「軍都」、戦後は米軍基地の街として大きく発展した相模原町は1954(昭和29)年に市制が施行され、相模原市となった。神奈川県の市制施行順では10番目であった。旧・座間町は1948(昭和23)年に相模原町より分立し、高座郡座間町が再置された(1971(昭和46)年、単独市制施行で座間市)。1954(昭和29)年3月、相模原町役場新庁舎が竣工、同年11月に市制が施行され相模原市となり、市庁舎となった。【画像は1963(昭和38)年】

市制施行時約8万人だった人口は、1960(昭和35)年に10万人、1967(昭和42)年に20万人、1971(昭和46)年に30万人と急増。旧市庁舎が手狭となったため建て替えられ、現在も使用されている市庁舎が1969(昭和44)年に完成した。写真は現在の市庁舎の様子。その後も1977(昭和52)年に40万人、1987(昭和62)年に50万人、2000(平成12)年に60万人と増え続け、2003(平成15)年に中核市へ移行。2006(平成18)年に津久井郡津久井町・相模湖町と、翌2007(平成19)年に津久井郡城山町・藤野町と合併、人口は70万人を超えた。2010(平成22)年、政令指定都市に移行、日本国内19番目、神奈川県内では横浜市、川崎市に次いで3番目の政令指定都市となり、緑区、中央区、南区の3つの行政区が置かれた。戦後生まれの市としては初の政令指定都市であり、相模原市の戦後の急成長を象徴している。


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