かつて、「児島半島」は「吉備児島」といわれる島であり「藤戸の泊」「藤戸の渡」と呼ばれる港も存在していた。平安時代末期には「源平合戦」の舞台となり、浅瀬の海を馬で渡った佐々木盛綱の逸話も残されている。岡山城主となった宇喜多秀家が干拓に着手し、池田家により事業は本格化した。江戸時代後期の文政年間に開発された新田は、中国の書物『管子』の中にある『興利除害』という言葉から、「興除(こうじょ)新田」と名付けられた。この地区は、明治時代に興除村となり、現在は岡山市南区の一部となっている。図は1831(天保2)年に小森可儀によって写されたもの。
「岡山平野」の南部には、かつての「吉備の穴海」を埋め立てた干拓地が拡がる。干拓により「吉備児島」と呼ばれた島は陸続きの「児島半島」に変わり、干拓地には新田が開かれた。藤田伝三郎氏が干拓した藤田村は、現在の地名にも残っている。一方、倉敷の臨海部分は工業地としても発展を遂げる。