写真は1678(延宝6)年に書かれた『池田光政元旦試筆』。6行目に「儒道興隆」と書かれている。
【画像は1678(延宝6)年】
岡山藩主・池田光政は、徳川光圀(水戸黄門)、保科正之に並ぶ、江戸時代初期の『三名君』として、全国的にも知られている。
儒教を信奉した光政は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)を重用、「花畠教場」に活躍の場を与えた。この「花畠教場」の存在は、その後の光政の教育政策(全国に先駆けておかれた藩校および「閑谷学校」)につながっており、現在の『教育県岡山』の下地になっているといわれる。また、蕃山は「岡山藩」の鉄砲組番頭として藩政を補佐し、災害時の領民の救済や、治山・治水などの土木事業にも取り組んだ。しかし、蕃山の陽明学は幕府から異学とみなされ、また藩内においては蕃山と家老たちの対立も起き、1657(明暦3)年に「岡山藩」を去った。
蕃山が去ったあとは、蕃山の弟子でもあった家臣・津田永忠が代わって光政を支えた。1669(寛文9)年、永忠が築いた「百間川」は以後、岡山の街を洪水から守っていくことになる。続いて、1670(寛文10)年からは光政の命で、庶民の教育の場である「閑谷学校」の設立に着手した。
1672(寛文12)年、光政は40年に及ぶ藩政から離れて隠居し、1682(天和2)年、数え年74歳で死去した。儒教を重んじた生前の光政は、派手な祭礼などを禁じ、庶民には倹約を徹底させた。
光政が出した「倹約令」には『食膳は一汁一菜とする』とあり、この制度の中で少しでも美味しいものを食べたいという願いから、海の幸と山の幸を散らした「岡山名物・ばら寿司」が誕生したともいわれている。