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西宮・モダニズムの文化と施設

明治末期から昭和前期にかけて、この地域を中心に、のちに『阪神間モダニズム』と呼ばれる都市文化が花開いた。その担い手の多くは、この地での古くからの有力者や、この地へ移住してきた実業家・文化人をはじめとする住民たちであった。こうした文化を背景に建設された特徴的な建物は『阪神間モダニズム建築』と呼ばれ、学校、鉄道、商店、娯楽施設などで現存しているものもある。西宮には「関西(かんせい)学院大学 西宮上ケ原キャンパス」の建物、「武庫大橋」などが見られる。


1929(昭和4)年に移転してきた「関西学院」 MAP __

1889(明治22)年、米「南メソヂスト監督教会」の宣教師、ウォルター・ラッセル・ランバス師により、「原田の森」(兵庫県原田村、現・神戸市灘区)に、「関西学院」が創立された。この校名は、英和学校と名付けられるミッションスクールが多い中、慣習を打ち破って「学院」とし、「西日本の指導者となる」という意味を込めて、関西を冠し、「クワンセイ」という独特の発音をするなど、自由な校風で知られた。1929(昭和4)年、上ケ原(兵庫県甲東村、現・西宮市)に移転し、1932(昭和7)年に「関西学院大学」の設置が認可された。1958(昭和33)年には、キャンパスを含む上ケ原地区が、文教地区として指定された。【画像は1929(昭和4)年頃】

現在も「西宮上ケ原キャンパス」には、「阪神間モダニズム」を代表する建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏による美しい建築群が残されている。

1937(昭和12)年に開かれた「大毎フェア・ランド」 MAP __

「大阪朝日新聞社(大朝)」と新聞の販売部数を競い合っていた「大阪毎日新聞社(大毎)」は、イベント開催でも競い合い、博覧会の開催にも積極的だった。1937(昭和12)年に開かれた「大毎フェア・ランド」は、竣工直前(会期中に竣工)の「阪急西宮球場」(現「阪急西宮ガーデンズ」)の外園などで行われ、「日独協定記念館」などのパビリオンやアトラクションで話題となった。その後「阪急西宮球場」とその一帯では、戦時体制下には新聞社の主催による軍事関連の博覧会、戦後の1950(昭和25)年には「アメリカ博覧会」が開かれるなど、時流を感じさせるイベントも行われた。【画像は1937(昭和12)年】

酒造家の寄付で誕生した「西宮市立図書館」 MAP __

「西宮市立図書館」は1928(昭和3)年、酒造家で「白鹿」第十三代当主の辰馬吉左衛門氏の寄付により、「西宮市役所」の庁舎南側に開館した。この図書館は、スパニッシュコロニアル風のスタイルを有し、大きな窓をもち、色鮮やかなステンドグラスでも有名だった。【画像は昭和戦前期】

「西宮市立図書館」は写真中央付近にあったが、1965(昭和40)年に「西宮市民会館」(写真右側、1967(昭和42)年竣工)建設のため、現「西宮市役所南館」(写真左側)の場所へ移転、さらに1985(昭和60)年、「西宮市立中央図書館」として「夙川」の畔にある「西宮市教育文化センター」内に移転した。

「武庫大橋」は「国道2号」が通る「武庫川」の名橋 MAP __

下流においては西宮市と尼崎市の間を流れる「武庫川」には、何本かの橋が架けられている。「武庫大橋」は大正後期から建設が進められていた「国道2号」(「阪神国道」)が「武庫川」を渡る橋として架橋された。「白鬚橋」「十三大橋」などの設計でも知られる増田淳氏の設計による鉄筋コンクリート造のアーチ橋で、1926(昭和元)年12月25日(昭和へ改元となった日)、「国道2号」の開通とともに供用開始となった。この橋の中央部分にはバルコニーが設置され、架橋から1975(昭和50)年までは、軌道線(路面電車)の阪神国道線が走っていた。【画像は昭和戦前期】

現在の「武庫大橋」の様子。2006(平成18)年度に「土木学会選奨土木遺産」となった。ちなみに、現在も「武庫大橋」上には「国道2号」が通るが、架橋当時の「国道2号」は、当時の「道路法」に基づき1920(大正9)年に認定された東京~鹿児島間を指すもので、現在「国道2号」として指定されている大阪~北九州間とは、同じ名称だが区間が異なっている。


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