1601(慶長6)年の「福岡城」築城開始以降、福岡は城下町として発展。城の西側の「地行(じぎょう)」「西町」(現・中央区地行・今川)には、家臣団の増加により「足軽屋敷」、また、藩の政策により寺社が置かれ、外郭の役割も果たした。1694(元禄7)年から、「西町」より「樋井川」を渡ったさらに西の地の「百道松原」の一部を伐り払い、武士の宅地である「新屋敷」が作られた。この絵図をはじめ、江戸前期・中期の絵図には「新西町」とあるが、江戸後期の絵図には「西新町」と文字が入れ替わった記載が見られ、現在の「西新」の地名の由来となっている。
江戸時代、西新(にしじん)は「紅葉八幡宮」の門前町、武士の暮らす町として、姪浜(めいのはま)は宿場町として発展。海岸には松が植えられ、「百道(ももち)松原」など風光明媚な海岸線も誕生した。明治・大正期には「修猷館」「西南学院」が西新へ移転、現在の文教エリアの礎に。明治末期以降には軌道・鉄道も開通した。都心近接でありながら、自然が豊かで、大正期以降は海水浴や行楽客でも賑わう地へ発展。西新は戦後、商店街や行商、大型店が共存する市西部最大の商業地となった。1980年代からは臨海部の埋立てが進められ、「シーサイドももち」など新たな都市が誕生、その海岸では人工ビーチの整備、松の植樹も行われ、かつての景観が復元された。近年では、西新・姪浜とも、市内有数の人気を誇る住宅地となっている。