「東大寺」の「大仏殿」と大仏は、「源平合戦(南都焼討)」後、鎌倉時代に再建されるも、戦国時代の「三好・松永の乱」で再び焼失、焼損した。江戸前期に僧の公慶上人が江戸幕府の許可を得て、全国で勧進を行い費用を集めたことで再興され、1692(元禄5)年に「大仏開眼供養」が行われた。勧進では、江戸や上方(京大坂)で宝物などを公開する「出開帳(でがいちょう)」を実施していたため、注目を浴びた。「大仏殿」の造営、諸寺の修復はその後も続き、1709(宝永6)年に「大仏殿落慶大法要」が盛大に行われた。
「東大寺」の大仏は、二度の兵火により焼け落ちるも再興され、奈良を象徴する存在となっている。江戸中期、日本中から大勢の人々が奈良を訪れ、「猿沢池」などを含めた『南都八景』は名所となり、観光用の絵図が作成されるなど、観光地として著しい発展を遂げた。