「難波津」と呼ばれた古代から海外交易の拠点であった大阪。豊臣・徳川の時代になると縦横の河川と運河によって水運が発達するとともに、多くの橋が架けられた。今日でも地名や駅名に多くの橋の名が使われており、大阪の発展と「橋」が密接な関係にあることを物語っている。江戸時代には『八百八橋』と呼ばれ、約200ほどの橋が架けられていた。このうち、幕府直轄の公儀橋はわずかに12橋。残りの橋は全て町人たちが自ら、生活や商売のために架けたもの。往時の町人たちの橋に対する熱意や、経済力の一端をうかがい知ることができる。
水の都・大阪 『八百八橋』の風景
水の都・大阪 『八百八橋』の風景
『八百八橋』の中でも『なにわの三大橋』と呼ばれる橋がある。奈良時代に行基が架けたと伝承される「難波橋」、1594(文禄3)年架設とされる「天神橋」、「大坂城」建設とともに架橋されたと伝わる「天満橋」の三橋で、いずれも公儀橋として重要視され、大坂の町人に親しまれてきた。堀川の埋め立て等で姿を消す橋がある中で、三大橋はいずれも現役の橋として歴史を伝え続けている。
MAP __(難波橋)
MAP __(天神橋)
MAP __(天満橋)